船越通信、№644 2024年12月15日(日) 北村慈郎
8日(日)の礼拝は船越教会70周年記念礼拝でした。出席者は12名でした。礼拝説教ではマタイによる福音20章1-16節の「ぶどう園の労働者の譬え」から、生前のイエスが宣教活動を行なって、彼の下に集まった弟子や仲間たちに共同体としての教会の原型があると思いますので、そこに焦点を当てて共同体としての教会につい話しました。
そこで私は、アルベール・アリ、シャルル・シンガー著『イエスと出会う~福音書を読む~』からヒントを得たのですが、教会共同体は「イエスの友達」、或いは「イエスのチーム」と規定できると言いました。
この日の説教の基本形は私の著書『自立と共生の場としての教会』の中にあります。1995年4月に母教会である紅葉坂教会の牧師になった時に、当時の紅葉坂教会の役員から私の宣教の考え方(方針)を問われ、それに応えて「自立と共生の場としての教会」について語った中にある説教です。
「自立と共生の場としての教会」という言い方は、教会の共同体としての在り方を問題にしています。信条とか信仰告白は教会の理念と言えると思います。礼拝は教会の祭儀と言えます。教会とは何かと言う場合、それらも大切ですが、同時にその教会の担い手の在り方も大切な問題です。
理念と祭儀があっても、例えば戦時下の日本基督教団の教会のように、当時の天皇制絶対主義的な国家の戦争行為に協力することによって教会の担い手がその理念や祭儀に反することをしていたらどうでしょうか。
現在で言えば、格差を生み出し、軍事増強を進める資本制国家である日本社会の中である程度豊かな層に属するキリスト者が、礼拝を厳守し、献金して教会を支えていますが、社会的な問題には無関心でいるとしたら、教会は資本制社会の中に呑み込まれていて、神と富の二人の神に仕えていることになりはしないでしょうか。
しかし、ルカ福音書では、イエスは「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(ルカ16:13)と言ったと記されていますから、そのような教会は、教会が信ずるイエスからも離反していることにならないでしょうか。私にとってはそのことが問題なのです。
船越教会は、60年代後半ごろからこの問題に自覚的で、船越教会の第2代目の牧師は、この日の説教でも引用しましたが、『船越教会50年誌』に以下のような文章を残しています。「私はキリスト教にたまらなく嫌気がすることがある。それと同時にイエスにたまらない愛着を覚える。……イエスを追及すればするほど、キリスト教がイエスとは異なることがはっきりしてきて、キリスト教を批判せざるを得ない。批判を通して、イエスに立ち帰りたいのです。…イエスが生き主張したこととキリスト教が教えている事は異なるのです。我らキリスト者がいまなすべきことは、歴史に生きたイエスに立ちかえる事です」。
この方向性を第3代以降の牧師たちも継承して、教会活動と共に社会的な連帯を大切にして船越教会は活動して来ました。その結実が船越教会横須賀平和センター宣言です。以下の文章です。「「私たちは、先の戦争に対する責任を自覚し、いのちを脅かす貧困、差別、原発、軍事力をはじめとするあらゆる暴力から解放されて、自由、平等、人権、多様性が尊重される平和な世界の実現を求め、共にこの地に立つことを宣言します」(2013年・クリスマス 船越教会一同)。
そこで教会共同体の在り様として教会は「イエスの仲間」「イエスのチーム」であるということを、この日の礼拝後に行なわれることになっていた教会修養会「船越教会の将来を考える」の前提として考えておかなければならないことなので、説教ではそのことを主にお話ししました。
礼拝後直ちに修養会の発題を私がしました。発題では先ず船越教会の歴史を簡単に振り返り、帰天したNさんが「創立50周年を迎えるに当たり、未来を展望する」という、2002年度の船越教会修養会発題レジメを生前私に下さいましたので、そのNさんの発題レジメの「未来を展望する前に~教会の基本姿勢の確認~」部分を紹介しました。
【①説教(神のご意志の確認)は教会活動に欠くことの出来ない重要な働きである。牧師が大半の課題を与えられているが、牧師を欠くときは会員がその責務を満たさなくてはならない。説教は教会に委ねられた働きだからである。聖書の導くところを、現代の文脈の中で付き合わせながら、励ましと、慰めと、希望を語ることを絶やすことは出来ない。
②共食(聖餐):イエスの十字架の苦しみと死のただ中に神が自らを啓示されたことを想起すると共に、彼が始めた神の国共同体建設に全ての者が招かれまた前進させるように求められていることを象徴する場として重んじて行きたい。負の要素に喘ぎ、対立と孤立化に傷つく世界が、本来、神の前にあるべき姿を示す場でもあり、共食に与った者はそのことを自覚して送り出される。
③牧師と会員の関係:牧師は説教と聖餐並びに牧会を担当するが、教会の交わりの中でその働きが求められ、委ねられている限りにおいてその役割は尊重される。社会的地位としての牧師職なるものは成立しない。牧師と会員は教会の宣教のために同じ水準で協力し働く】。
それに加えて教会の基本姿勢としては、神の国の前線基地である「イエスのチーム」としての教会共同体の形成として教会の働きを考えたいと申し上げました。その上で、現在の教会の現状(①教会員現状(年齢構成、出席者数)、②財政問題、③礼拝の持ち方)を分析し、船越教会の将来の可能性として以下の三つが考えられるのではないかと申し上げました。
①このまま今までと同じように継続して活動し、継続が出来なくなった時に解散する。②他教会と共同して教会活動を継続していく道を模索する。③現在の土地から京急田浦近辺に教会施設を移動し、人が集まりやすい場所で教会活動を継続する道を模索する。
そして最後にこの三つの中のどれを選ぶにしても、それぞれに考えられることは何かを示唆して、私の発題を終えました。発題後昼食を共にし、一休みしてから午後1時ごろから3時半過ぎまで、会堂の長椅子を四角に並べて、対面での話し合いをしました。その内容については、何れ皆さまに送るようにいたします。地方の会員には発題レジメと共にお送りいたします。
この週は12日(木)に国会前の座り込みに行きました。