なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(41)

         船越通信癸苅院  。横娃隠嫁1月22日    

・15日の礼拝後、1月8日礼拝後のテーマ話し合いに出席しておられたSさんから私と発題者のIさん宛てに、その時のIさんの発題に対する応答を文章にしていただきました。〔燭箸蓮↓⊆殺について、これからの船越教会について、記してくださいました。いずれSさんの了解をとって、全部みなさんとも分かち合いたいと思っていますが、のこれからの船越教会について は私とIさんだけではなく、皆さんにも向けられたものですので、私の独断で下記にこの部分を転記いたします。

・「これからの船越教会について」     S

 みなさんは、ご自分の教会をどう思っていらっしゃるのか?。会員数が少ないとか、設備に恵まれてない、とか、お考えでしょうが、私にはそのような詮索は無用だと思っています。縁がありまして数々の教会を巡りましたが、どの教会も「由緒正しく」あろうとして、一時期の礼拝形式を導入したり、説教が時代から乖離して難解なものになったり、表面的・形式的な由緒正しさによって正統であると自負しているようです。そのような教会や信仰者の特徴は、キリストの誠実さ、キリストのための苦難よりも、手続き、社会への影響力、社会的シテータスに語るところがあります。キリスト信仰者は、神のみ心を求めて、世の中を変えていくことを求めるものです。永遠に変わらない真理はありますが、変えるべき多くの事柄があるのです。特にプロテスタント信仰にはそのような変革を迫る面が多くあるのです。キリスト教信仰者も教会も神の前に悔い改めて、新たに変革され続けなければならないと考えています。プロテスタント宗教改革とは、単に十六世紀に起こった歴史的事実ではなく、わたしたちの生の中で、現在も起こっていかなければならないと思います。

 私は、イエスの復活ということを文字通り受け取る必要はないと考えています。キリストがパウロに現れたという出来事は、もともと万人のもとに無条件に臨在する超越者の働きが、あらわになったことなのでしょう。自己が自己たらしめられている事実が自覚された出来事なのです。イエスが神の支配人=神の子と呼び、浄土仏教が阿弥陀仏と呼んでいるものと本質上同じなのです。

 しかし、忘れてはならないことは、パンロが指し示す本来の生とは、個人的なせいではなく、社会的な生なのです。律法の根底に存在する神は、同時に自己を生かすものなのです。ですから「汝すべし」と「我欲す」とは矛盾しながらひとつとなって、共鳴するのです。それが真実なのです。エゴイズムを克服した人格は、このような超越者の働きの場の中で生きています。こうして、他律と自律がひとつとなる基本的構造をとらえたときに、わたくしたちは、はじめて、一方ではエゴイズムを批判するとともに、他方では社会の構造の変革を求めることができるでしょう。

 宗教の世界は決して特別なものでもなく超自然的なものではありません。パウロにしても、万人の生本来の可能性を指し示しているのです。パウロは自らその生を生き、その証言をしたのではないでしょうか。わたくしたちは、自らその生を生きることを求めなければならないと思います。そのとき、わたくしたちは聖書の真理を理解したことになるでしょう。

・以上のSさんの「これからの船越教会について」は、これからの船越教会は私たち一人一人がパウロのように、「もともと万人のもとに無条件に臨在する超越者の働き」の中で生き、その証言者になっていくこと尽きると言っているように思います。このことの他にも「これからの船越教会について」考えるべき事柄はあると思いますが、Sさんの言われていることを根底にしていかなかったなら、どんなことがこれからの船越教会について考えられても、それらは空しいように思えます。

・15日の夜紅葉坂教会で私の裁判支援会の事務局会が行われました。まだ公判の日程が決まっていませんが、現状の確認。正会員・賛助会員・献金・カンパの状況報告。そして公判日程が決まり次第、発送予定の通信第1号の編集作業などを行いました。

・19日(木)19:30から船越教会で聖書研究会があり、本田哲郎さんの『聖書を発見する』終章「人を大切にする」を一緒に読みました。出席者は私を入れて6名でした。「愛する」よりも「大切にする」の方が、他者である隣人との関わりでは自分の中で無理がないという感想が多かったように思います。

20日(金)18:30から寿地区センターで寿地区活動委員会があり出席しました。寿地区センターには今年度から主事のMさんの他に非常勤職員が加わっていますので、会計面で厳しい状況です。寿地区センターを経済的に支えていただければ幸いです。

・またこの週は19日と21日に船越教会の方ではありませんが、面談者があり応じました。

・15日(日)の礼拝説教は、マルコ福音書8章11-21節からメッセージを取り次ぎました。弟子の無理解がテーマの所ですが、イエスの「まだ悟らないのか」という言葉に焦点を当てて語らせてもらいました。「まだ」には、弟子の繰り返される無理解に「怒り」を含みつつも、イエスの方から弟子たちを突き放さないでいるイエスの忍耐が現れているのではないか。しかも弟子の無理解に引きずられていくのではなく、あくまでもイエスの方へ弟子たちを招いているのです。弟子の無理解には、神の国を宣べ伝えるイエスの言葉や奇蹟行為への弟子たちの驚きと期待の反面、十字架に向かって歩むイエスの道行にはついていけない弟子たちの姿があるように思われます。弟子たちがその躓きを超えるには、イエスの復活・顕現・聖霊降臨が必要だったのでしょう。圧倒的な神の可能性に打ち砕かれて、弟子たちは彼らの無理解等という躓きを乗り越えてイエスに従っていけたのではないでしょうか(詳しくは私のブログ「なんちゃって牧師の日記」1月21日を参照下さい)。