なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(30)

      マルコ福音書による説教(30) マルコ8:11-21、
         
・イエスは弟子たちに対して、「まだ、分からないのか。悟らないのか」と言われます。この短い箇所に二度(17、21節)くり返し、弟子たちの無理解を嘆くほぼ同じ言葉が語られているのは注目に値します。それだけでも、この箇所全体を特色付けていると言えますが、更に、12節にある天からのしるしを求めるファリサイ派の人たちに対するイエスの深い嘆息を加えますと、イエスを受け入れようとしない人間の無理解、不信仰に直面して、「まだ悟らないのか」と嘆いているイエスの姿が、この箇所全体から浮かび上がって来ます。

・「まだ」という言葉の中には、幾度も幾度もイエスを理解するチャンスがあったにも拘らず、いっこうにイエスを理解しようとしない弟子たちの頑なさが暗示されています。ちなみに前の記述を振り返ってみますと、7章18節に、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである」(7:15)というイエスの言葉を理解できなかった弟子たちに向かってイエスは、「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか」と叱責しています。更に6章52節には、五千人に五つのパンと二匹の魚を分けて満腹させた出来事の後、ガリラヤ湖での出来事が記されていました。そのところで、ガリラヤ湖のまん中で逆風のため舟をこぎ悩んでいる弟子たちのところに、イエスが湖の上を歩いて近づいて来て、そのそばを通り過ぎようとします。その時、弟子たちはすっかり驚いてしまいました。その弟子たちに対して、「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と言われているのであります。

・イエスとイエスのおっしゃる言葉やなさった行為が多くの人々の中でつぎつぎに拡がってゆく時に、弟子たちはそのそばに共にいました。イエスによって起こされる一つ一つの出来事を最も近くにいて体験していたのであります。らい病人がきよまり、悪霊につかれた者が解放され、ファリサイ的な律法の偽善が明らかとされていくのを目(ま)のあたりに見ていました。そして、貧しい人々や罪人と共に食事され、彼らの友として振る舞うイエスの出来事に立ち合っていました。にも拘らず、弟子たちは、イエスが誰であり、イエスが何をなし給うのかを正しく理解できないのです。

・そのような弟子たちの無理解、すなわち彼らの頑なさとは一体何なのでしょうか。それは、イエスとイエスが語ったり、行なったりしているもの以上(以外)のものをイエスに期待することではないでしょうか。信仰とは、イエスとイエスの御業とを、そのものとして私たちが受け入れることであります。そして、私たちがイエスの者として、イエスにおいてあらわされた神のみ業に驚き、それを喜ぶ者として、同じ信仰の仲間と共に生涯をかけて歩み通すことではないでしょうか。弟子たちには、このイエスから生きるという、自らと自らの生活をどこから出発させてゆくのかという根本的な方向転換を、執拗に拒絶しているところがあります。

・そういう意味で、イエスとイエスの語られたこと、なさったことは、福音書の記述からすれば、弟子たちの目には「躓きの石、さまたげの岩」でありました。イエスは、病者、からだに障害を持つ不自由な者、悪霊つき、罪人たちの仲間として振る舞いました。その反面イエスは、当時の民衆の指導者であるファリサイ派の人たち、長老たち、宗教的政治的な権威者である大祭司、支配者ヘロデ、ユダヤを属州として支配するロ-マから彼らの敵対者として弾圧されました。そのようなイエスが弟子たちにとっては、自分たちが心から従うべき方であるのかという戸惑いが、心のどこかにあったにちがいありません。イエスに受難の影がつきまとい始める頃になると、ますますその思いが強くなっていったのではないでしょうか。弟子たちは、イエスの教え(神の国)と奇跡に心おどらせつつも、この地上でのイエスの道行きには、教えや奇跡にあらわれている輝きが全くないかの如くに見えたのでしょう。馬小屋で生まれたというみどり児の貧しさから十字架のイエスの無力さまで、ただ無力で貧しい人間のさましかイエスには見られなかったのでしょう。

・今日司会者に読んでいただいたマルコによる福音書の8章11節以下に、「天からのしるし」を求めたファリサイ派の人たちに、「イエスは、心の中で深く嘆いて言われた」と記されています。そして「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」と言われたというのです。このようにファリサイ派の人たちに答えるイエスと、あの五千人に五つのパンを分け与え、四千人に七つのパンを分け与えたイエスとは、弟子たちには、どうしても重ならなかったのでしょう。あの不思議な出来事は幻影ではなかったのか。そのような思いが脳裏にひらめくのを弟子たちはどうすることもできなかったに違いありません。

・そのような弟子たちには、彼らを戒めて言われた「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(15)というイエスの言葉を正しく理解することはできませんでした。マタイの並行記事を見ますと(16:11)、「ファリサイ派とサドカ派の人々のパン種に注意しなさい」と変えられており、更に16章12節で、その説明が付け加えられています。それによりますと、「そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派サドカイ派の人々の教えのことだと悟った」と言われています。マタイでは、「パン種」を「教え」と限定して解釈されていますが、マルコには何も記されていません。ルカ12章1節では、「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」と言われています。このルカの言葉によってマルコも解釈できるのか、よくわかりません。

・「パン種」は、新約聖書において用いられる場合、天国の譬えに用いられる場合を除いて(ルカ13:20ff.=マタイ13:33)、比喩的に悪い意味において使われています(cf.1コリント5:6、7、8、ガラテヤ5:9)。ユダヤ教においても悪い意味に用いられています。特に悪しき罪の衝動(レビ2:11、1コリント5:7-8)の意味に用いていました。ユダヤ人にとってもパン種は悪の象徴でありました。発酵と腐敗が同一視されていたのであります。ラビのアレクサンドロスは次のように言ったと言われています。「あなたのみ心を行うことが、わたしたちの願いであることは、あなたがたがご存じの通りです。それなのに何がそれを妨げるのですか。生パンの中にあるパン種とこの世の王国に束縛されているものです。彼らの支配からわれわれを解放して下さることが、あなたのみ旨でありましょう」と。

・これらのことからしますと、鈴木正久が『神の国のおとずれ』の中で、ファリサイ人を「周知の偽善者、宗教的に高ぶる者」と規定した上で、次のように語っている解釈は示唆的であります。「この世の偉大さの扮装に身をつつまず、それ自体の真実さにおいてこの世に臨在しつづけるもの、世においてはいわば『見えない』真理、主なる神の恵みの事実、これに冒険的、決断的に信頼し続けること。この情熱的な信仰がゆらぐことと表裏をなして、人は威丈高に他に対したり、妥協的に勢力増大を策したりする人間に転落してゆくのではないか。真剣に警戒すべき二種類のパン種は、換言すれば、見えざる真実、この世ではかくれている真理に信頼しつづけることからの逸脱の危険である」(226-227頁)。

・弟子たちは未だイエスの立っている場に、立ち得ていません。イエスと弟子たちとの間には、躓きがあります。それは、弟子たちの無理解であり、頑なさであり、不信仰であります。けれども、イエスは、そのような弟子たちの無理解と頑なさと不信仰へと自らを同化させることはしません。また、だからといって、そのような弟子たちを捨てることもしません。むしろ、イエスのところへ弟子たちを招き寄せようとしています。その躓きを越えるものは何でありましょうか。どのようにしてそのみぞを越えることができるのでありましょうか。

・イエスは「まだ悟らないのか」と弟子たちに語りかけられます。この「まだ」という言葉には、弟子たちの頑なさが暗示されていると共に、イエスの忍耐が込められた言葉でもあります。しかし、イエスの忍耐は、頑なな子供が父親を拒絶して、自分の好き勝手な危険な道に進んでいくのを、手をこまねいて、なすすべもなく、見守る以外にないというのではありません。何か言ったら、ますますエスカレ-トするから、ただただ、耐え忍ぶ。いつかは自分で気が付いてわかってくれるだろうという、主体性を放棄してしまった、おまかせ主義としての忍耐ではないのであります。

・「まだ悟らないのか」というイエスの言葉には、無理解な者に対する強い憤りと告発が秘められているからです。しかも、その憤りと告発は、無理解な者に対する極みまでの受容と表裏一体となっているのであります。「まだ悟らないのか」という言葉は、十字架上のイエスの言葉「父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのか、わからないからです」(ルカ23:34)によって言い換えられる言葉であります。

・人間の頑なさとイエスの忍耐を示す「まだ悟らないのか」という弟子たちに対するイエスの言葉は、イエスと私たちとの距離(へだたり)を示しているものでありますが、そのようなへだたりが克服され、私たちがイエスの兄弟姉妹として迎えられるためには、十字架、復活、顕現、聖霊降臨という一連の出来事によらなければならなかったと、聖書は告げている。イエスの復活と顕現と聖霊降臨を経て、弟子たちが Nachfolge(信従)へと歩み始めたということを充分に考えなければなりません。復活から聖霊降臨へという出来事は、神の可能性を示しています。神が神としてご自身をあらわされるとき、つまり神の現臨の下において、あのへだたりははじめ神によって取り除かれるのであります。私たちの頑なさや不信仰は全き神の前には、その場所を持たないからです。しかし、神の現臨はこの世の歴史においては、信仰によってのみ受け入れられることが許されているのであって、私たちには隠された真理であります。私たちが歴史的に確認できるのは、馬小屋に生まれ、十字架上に死んでいった人間イエスの貧しさだけです。イエスは、一人の人間として現状に甘んじることなく、人間の罪の蓄積としての歴史の重荷をになって歩むまことの人です。

・私たちは、ともすると、神を求めることによってこの地上の重荷から解放されることを期待します。おそらく弟子たちも同じであったのでしょう。しかし、イエスにおいては、神による地上の重荷からの解放が、地上の重荷を担い切ることによる解放であることが示されているのであります。罪と死からの救いは、罪と死と戦うところにあります。この地上の重荷からの解放は、私たちがそれを担うことによって主の栄光の実を結ぶことにあるのです。「まだ悟らないのか」と、イエスは、今も私たちに語りかけているのであります。