なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(61)

「傷ついた葦を折らず」マタイ12:14-21、2010年1月5日

 

  • 今日は新年の最初の礼拝です。今年2020年も大変厳しい年になるだろうことは、今から覚悟をしておかなければなりません。以前紹介しましたように白井聡(しらいさとし)は、現在の日本を、1930年代から1945年の敗戦までの戦前の歴史に並行する、戦後日本の崩壊期としてとらえています。白井によりますと、2022年が戦後77年で、明治元年の1868年から敗戦までの77年間と同じになり、2022年が戦後の敗戦の年になります。今年は2020年ですから、1945年の敗戦の2年前、1943年(昭和18年)に当たります。
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  • 東京新聞の「本音のコラム」で文芸評論家の斎藤美奈子は、日本の若者の自己肯定感の低さを、韓国やアメリカの若者と比べて述べた後、「日本を希望のない国にしてしまったのは、言うまでもなく大人の責任である。昨年一年の政治を思い返しても、正義が達成されない局面が多すぎた。台風災害からの復旧は今も進まず、消費税増税は家計を直撃し、「桜を見る会」事件やIR贈収賄事件はこの国の権力が完全に私物化されていたことを示した。この期に及んで現政権を支持する人は信用に値しない。/年が改まったくらい何さ。昨年から積み残している案件をウヤムヤにしない。自分を肯定できる社会への第一歩はそこからだ」と述べています。

 

  • 2020年も大変厳しい年になるだろうということは、そういうことでもあります。

 

  • そのような2020年の最初の日曜日に、マタイによる福音書12章14~21節から、私たちへの語りかけを聞きたいと思います。

 

  • この箇所の前には、安息日におけるイエスの癒しをめぐるファリサイ人とイエスの論争が記されています(12:1-14)。先ほど司会者に読んでいただいた箇所の直前の12章14節には、「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにイエスを殺そうかと相談した」と記されています。

 

  • エスと、病者の癒しをはじめイエスによって始まった運動は、当時のユダヤ社会にあって自他共に民衆の指導者と認められていたファリサイ派の人々にとっては、根本的に受けいれられないものがあったようです。「イエスを殺そうかと相談した」というわけですから、ファリサイ派の人々はイエスに対する激しい憎悪をもち、こんな人は自分たちの中にはいて欲しくないという排除の思いを強く持っていたのです。他者に対して、その人を殺したいと思うほど強い憎悪と排除はどのようにして起こるものなのでしょうか。
  • 現代におきましても、このファリサイ人の、相手を殺してもかまわないというところまで思いつめてしまう何物かが、私たち人間の中にあることを、様々な出来事から私たちは知らされています。個人同士ではありませんが、つい最近起きた、アメリカによるイラン革命防衛隊の精鋭「ゴッズ部隊」を率いるソレイマニ司令官の殺害事件にも、そのことが現れていると思われます。アメリカはビン・ラディンも殺害しました。国家の自衛のためにとはいえ、国家によって都合の悪い人間を殺害する行為は許されるものではありません。イランは報復すると表明しています。アメリカとイランの全面戦争になることはないと言われていますが、殺し合いが行われるのではないかと思われます。
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  • エスは、ファリサイ派の人々が自分を殺そうとしていることを知って、「そこを立ち去った」と言います。ウルリッヒ・ルツは「イエスはファリサイ人たちの計画を見抜く。彼は彼らの陰謀のなぶり者にはならない。それゆえ、彼が退却するということは、逃走(逃げること)ではなく、不安の徴でもない」と言っています。

 

  • 退却しても、イエスはそこを立ち去られたが、「大勢の群衆が従った」と言います。また、「イエスは皆の病気を癒した」と言います。退却しても、イエスはやるべきことはやっているわけです。ただ、ファリサイ人の陰謀を知って、いたずらな対立は避けたということでしょうか。避けられる対立は避けたが、自分のやるべきことは、粛々とやっていかれたということでしょうか。

 

  • 私は、このようなイエスの姿に、人間としての軸の確かさを感じます。コマがぶれないで、一箇所にとまっているかのようにまわり続けるのは、軸がしっかりしているからです。軸が定まっていないコマは、すぐとまってしまったり、あっちにいったり、こっちにきたりして定まりません。私は自分の人間としての軸を、信仰によって与えられていると思っています。イエスを通した神との関わりの中で、聖書を読み、神と対話し、祈ることによって、神との関わりにある、赦され、愛されてある自分を知らされます。その神にどう応えていくかということで、自分の生活の方向が定まり、迷いが少なくなります。イエスはその軸がしっかりしていて、ほとんどぶれなかった人ではないかと思います。

 

  • エスを「まことの人」と言うのは、神との絶対的な関係によって、イエスはまことの神によって生かされているまことの人だからです。

 

  • 16節をみますと、イエスは従ってきた群衆や弟子たちに「御自分のことを言いふらさないようにと戒められた」とあります。ここにも、いたずらな対立を避けるイエスが示されているのかもしれません。

 

  • このようなイエスについて、マタイによる福音書の著者は、第二イザヤの「苦難の僕」の預言が成就したと考えました。18節から21節は、イザヤ書42章1-4節からの引用です。

 

  • ちなみにマタイ福音書の一つの特徴は、「預言の成就」という考え方にあります。17節の「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」が、それに当たります。旧約聖書の預言がイエスにおいて実現成就したという信仰です。

 

  • マタイはイエスを「インマヌエル」として理解しました。インマヌエル(「神われらと共に」)としてのイエスの物語をマタイはその福音書で書いているのです。そして最後に、弟子たちを派遣しますが、その時イエスはこう語っています。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だからあなたがたは行って、全ての民をわたしの弟子にしなさい。彼らは父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:18-20)。ここにも「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われています。インマヌエルのイエスです。

 

  • エスに従っていく者は、イエスの歩まれる確かな道、インマヌエル(神われらと共に)の道を見い出すことができます。それは人間としての軸がしっかりと定まった道です。この18節から21節のイザヤ書42:1-4からの引用も、ファリサイ派の人々のイエス殺害の陰謀という文脈において、イエスの歩まれる確かな道が暗示されているのであります。

 

  • ウルリッヒ・ルツはこのように語っています。「一つのイメージで表現すれば、イスラエルにおける彼(イエス)の道の途上で次第に敵視され脅かされるイエスの物語は、厚い雲の層に包まれて悪天候の中をさまよい歩くことに似ている。われわれのテキストは、一瞬の間雲の層を吹き飛ばし、それによって天が、つまり、事柄に即して言えば、イエス服従の悲しい物語の真の見通しが、再び見えるようになる。その時にのみ、それは理解できるようになる。なぜなら、天について知っている者だけが、世界を理解する。神の未来を知っている者だけが、現在を理解する。そのことを、とりわけ18、20c-21節が暗示する」と。

 

  • その18、20c-21節を岩波訳で読んでみます。「見よ、私の選んだわが僕、/わが愛する者、わが心にかなった者。/私は、わが霊を彼の上に置こう、/彼は、異邦人たちにさばきを告げるであろう。/・・・・彼がそのさばきを勝利に導くまでは。/そして異邦人たちは、彼の名に望みを置くであろう」。

 

  • 新共同訳聖書では「さばき」が「正義」と訳されています。原語は「さばき」とか「判決」を意味する語が使われています。神のさばきは正義の確立であり、真の救済であり解放であります。ですから本田哲郎さんは「さばき」を「解放」と訳しています。「異邦人」を「世の民」と訳しています。
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  • 本田哲郎訳ですと、「見よ、わたしのしもべ、わたしの選んだ者。/心にかなうわたしの大切な人。/わたしのしもべに、わたしの霊をさずけ、/かれは世の民に解放を知らせる。/・・・・こうして解放を勝利にまでみちびく。/世の民はこのしもべに望みをかける」。

 

  • 「イエスの物語は、雲の層の下で繰り広げられる限りでは、『穏和さ』、憐れみ、無暴力、および愛の物語である。・・・そのことを19-20bが暗示」しています。

 

  • 19-20b、岩波訳で「彼は争わず。叫ばず、/通りで彼の声を聞く者は、一人もいないであろう。/彼は、傷つけられた葦を砕くことなく、/燃え残る(燈火の)芯を、消すこともないであろう」

 

  • 敵対による強い憎悪によるファリサイ派の人々のイエス殺害計画のようなことが起きる現実の世界の中で、イエスは「…争わず。叫ばず、/通りで彼の声を聞く者は、一人もいないであろう。/彼は、傷つけられた葦を砕くことなく、/燃え残る(燈火の)芯を、消すこともないであろう」というのです。

 

  • 「傷つけられた葦」「燃え残る(燈火の)芯」とは、この敵対と憎悪に満ちた現実世界の中で傷つき、苦しむ、その命の灯が消えそうな人々のことを意味していると思われます。イエスは、「傷つけられた葦を砕くことなく、/燃え残る(燈火の)芯を、消すこともない」というのです。

 

  • ウルリッヒが言うように、「イエスの物語は、(この現実の世界、すべての人に降り注ぐ太陽の温かさを遮る、厚い)雲の層の下で繰り広げられる限りでは、『穏和さ』、憐れみ、無暴力、および愛の物語である」のです。この現実世界の中で傷つき、苦しむ人々にとっては、解放の物語です。「世の民はこのしもべ(イエス)に望みをかける」のです。

 

  • 最初に申し上げましたように、傷つけられた葦を砕き、燃え残る燈心を消す暴力が猛威をふるうかに思われる、大変厳しい2020年ですが、この新しい年に向かって、「『穏和さ』、憐れみ、無暴力、および愛の物語」であるイエスの物語を、私たちも共に生きていきたいと思います。

 

  • その思いを新たにして、この新しい年の船出にしたいと思います。

 

  • 祈ります。