「彼の名に望みをかける」マタイによる福音書12:14-21、
船越教会ペンテコステ礼拝説教 2017年6月4日
・今日はペンテコステ、聖霊降臨日の礼拝です。聖霊降臨節の聖書日課の聖書箇所の一つが、先ほど司会
者に読んでいただいたマタイによる福音書12章14-21節になりますので、今日はこのマタイによる福音書1
2章14~21節から、私たちへの語りかけを聞きたいと思います。
・マタイにおる福音書では、この箇所の前には、安息日におけるイエスの癒しをめぐるファリサイ人とイ
エスの論争が記されています(12:1-14)。先ほど司会者に読んでいただいたその最後に当たります12章14
節には、「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにイエスを殺そうかと相談した」と記されていま
す。
・イエスの病者の癒しをはじめ、イエスによって始まった運動は、当時のユダヤ社会にあって自他共に民
衆の指導者と認められていたファリサイ派の人々にとっては、根本的に受けいれられないものがあったよ
うです。「イエスを殺そうかと相談」をはじめというわけですから、ファリサイ派の人々はイエスに対す
る激しい憎悪をもち、こんな人は自分たちの中にはいて欲しくないという、イエス排除の思いが強かった
のではないかと思われます。そういう他者に対して、その人を殺したいと思うほど強い憎悪と排除はどの
ようにして起こるものなのでしょうか。
・イエスは、ファリサイ派の人々が自分を殺そうとしていることを知って、「そこを立ち去った」と言い
ます。「イエスはファリサイ人たちの計画を見抜きました。彼は彼らの陰謀のなぶり者にはなりません。
それゆえ、彼が退却するということは、逃走(逃げること)ではなく、不安の徴でもありません」(ウル
リッヒ・ルツ)。イエスはそこを立ち去られましたが、「大勢の群衆が従った」と言います。また、「イ
エスは皆の病気を癒した」と言います。退却しても、イエスはやるべきことはやっているわけです。た
だ、ファリサイ人の陰謀を知って、いたずらな対立は避けたということでしょうか。避けられる対立は避
けたが、自分のやるべきことは、粛々とやっていかれたということでしょうか。
・私は、このようなイエスの姿に、人間としての軸の確かさを感じます。コマがぶれないで、一箇所にと
まっているかのようにまわり続けるのは、軸がしっかりしているからです。軸が定まっていないコマは、
すぐとまってしまったり、あっちにいったり、こっちにきたりしして定まりません。私は自分の人間とし
ての軸を、信仰によって与えられていると思っています。イエスを通した神との関わりの中で、聖書を読
み、神と対話し、祈ることによって、神との関わりにある、赦され、愛されてある自分を知らされます。
その神にどう応えていくかということで、自分の生活の方向が定まり、迷いが少なくなります。イエスは
その軸がしっかりしていて、ほとんどぶれなかった人ではないかと思います。イエスを「まことの人」と
言うのは、神との絶対的な関係によって、イエスはまことの神によって生かされているまことの人だから
です。
・16節をみますと、イエスは従ってきた群衆や弟子たちに「御自分のことを言いふらさないようにと戒め
られた」とあります。ここにも、いたずらな対立を避けるイエスが示されているのかもしれません。
・このようなイエスについて、マタイによる福音書の著者は、第二イザヤの「苦難の僕」の預言が成就し
たと考えました。18節から21節は、イザヤ書42章1-4節からの引用です。ちなみにマタイ福音書の一つの
特徴は、「預言の成就」という考え方にあります。17節の「それは、預言者イザヤを通して言われてイス
ラエルいたことが実現するためであった」が、それに当たります。旧約聖書の預言がイエスにおいて実現
成就したというのです。
・マタイはイエスを「インマヌエル」として理解しました。インマヌエル(「神われらと共に」)として
のイエスの物語をマタイはその福音書で書いているのです。そして最後に、弟子たちを派遣しますが、そ
の時イエスはこう語っています。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だからあなたがたは
行って、全ての民をわたしの弟子にしなさい。彼らは父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがた
に命じておいたすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」
(28:18-20)。ここにも「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われています。
・イエスに従っていく者は、イエスの歩まれる確かな道、インマヌエル(神われらと共に)の道を見い出
すことができます。それは人間としての軸がしっかりと定まった道です。この18節から21節のイザヤ書4
2:1-4からの引用も、ファリサイ人のイエス殺害の陰謀という文脈において、イエスの歩まれる確かな道
が暗示されているのであります。
・ウルリッヒ・ルツはこのように語っています。「一つのイメージで表現すれば、イスラエルにおける彼
(イエス)の道の途上で次第に敵視され脅かされるイエスの物語は、厚い雲の層に包まれて悪天候の中を
さまよい歩くことに似ている。われわれのテキストは、一瞬の間雲の層を吹き飛ばし、それによって天
が、つまり、事柄に即して言えば、イエスの服従の悲しい物語の真の見通しが、再び見えるようになる。
その時にのみ、それは理解できるようになる。なぜなら、天について知っている者だけが、世界を理解す
る。神の未来を知っている者だけが、現在を理解する。そのことを、とりわけ18、20c-21節が暗
示する」
・18、20c-21節を岩波訳で読みます。「見よ、私の選んだわが僕、/わが愛する者、わが心にか
なった者。/私は、わが霊を彼の上に置こう、/彼は、異邦人たちにさばきを告げるであろう。/・・・・彼
がそのさばきを勝利に導くまでは。/そして異邦人たちは、彼の名に望みを置くであろう」。
・新共同訳聖書では「さばき」が「正義」と訳されています。原語は「さばき」とか「判決」を意味する
語が使われています。神のさばきは正義の確立であり、真の救済であり解放であります。ですから本田哲
郎さんは「さばき」を「解放」と訳しています。「異邦人」を「世の民」と訳しています。
・本田哲郎訳ですと、「見よ、わたしのしもべ、わたしの選んだ者。/心にかなうわたしの大切な人。/
わたしのしもべに、わたしの霊をさずけ、/かれは世の民に解放を知らせる。/・・・・こうして解放を勝利
にまでみちびく。/世の民はこのしもべに望みをかける」。
・「イエスの物語は、雲の層の下で繰り広げられる限りでは、『穏和さ』、憐れみ、無暴力、および愛の
物語である。・・・そのことを19-20bが暗示する」
・19-20b、岩波訳で「彼は争わず。叫ばず、/通りで彼の声を聞く者は、一人もいないであろう。
/彼は、傷つけられた葦を砕くことなく、/燃え残る(燈火の)芯を、消すこともないであろう」。
・今日は聖霊降臨節です。イエスの受難と十字架を前にして裏切ったり、逃げ去ったり、イエスなど知ら
ないと否認した、弟子たちですが、聖霊が弟子たちに降ることによって、彼らはイエスの証人として福音
宣教の働きを担っていきました。何という大きな変貌でしょうか。弟子たちは、自分の力で変わることが
できたのではありません。神の霊という命を受けて変わったのです。
・今日の船越通信にも書いておきましたが、先週大和でペシャワールの中村哲さんの講演会がありまし
た。ご存知の方も多いと思いますが、中村哲さんは医者としてアフガニスタンで医療活動をしている人で
すが、2000年ごろから農業の灌漑用水路を現地の人々とつくって、砂漠化した土地を緑豊かな土地に変え
て、沢山の人々が命を紡ぐことのできる村を再生する働きをしています。プロジェクターで写された砂漠
化した土地が、用水路が完成して緑の豊かな土地に変っていく、その様は奇跡としかいいようのないすば
らしいことです。人を寄せ付けない砂漠化した死の土地が、緑豊かな土地に変って、そこに人が住み着き
農作物の収穫によって命を紡いでいく村が生まれるのです。砂漠のような死の土地が緑豊かな命を育む土
地に変るために必要なのは、水です。灌漑用水路を築いて水を引き込むことによって砂漠化した土地が緑
豊かな土地に変るのです。
・私たちにとって用水路に当たるのが聖霊降臨と言ってよいのではないでしょうか。パウロは、「聖霊に
よらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(汽灰螢鵐12:3)と言っています。汽灰
ントでは、その後にパウロは霊の賜物を与えられたキリスト者の共同体である教会を、キリストの体と言
い、《あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です》(12:27)と言っています。
この箇所の文脈の中でパウロは、体と手足のような肢体との関係を語って、肢体同士が互いにお前はいら
ないとは言えないと言い、《それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なので
す。・・・神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで体に分裂
が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、
一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜びます》(汽灰12:22-26)と語っているのです。
・このパウロの教会論からすれば、私たちが聖霊を受けて、イエスを主と告白し、イエス(キリスト)の
体である教会の一員として加えられたということは、最も弱い立場の人を中心に据えて、分裂のない、互
いに配慮し合って生きる共同体を形成するためであると、言えるのではないでしょうか。
・イエスの運動も正にそのような真のイスラエル共同体の形成にあったと考えられます。ファリサイ人が
そのイエスに、殺そうと思うまでの憎しみを持ったのは、彼らの存在が否定されているように思ったから
です。ファリサイ人は、律法違反者をみつけだしては、彼ら・彼女らを断罪して、罪人と判定して、彼ら
にとって正統と思えるイスラエル共同体から追放して、自らの正統性に立って生きて来たのです。イエス
は、ファリサイ人が罪人として彼らの仲間から排除した人々と共に食卓を囲み、彼ら・彼女らを決して排
除せず、むしろ自分の仲間として共に生きました。
・パウロの「キリストの体」としての教会も、イエス運動がめざした最も弱い立場の人が中心に据えられ
る共同体、コミュニティーとして考えられるのではないでしょうか。
・「見よ、わたしのしもべ、わたしの選んだ者。/心にかなうわたしの大切な人。/わたしのしもべに、
わたしの霊をさずけ、/かれは世の民に解放を知らせる。/・・・・こうして解放を勝利にまでみちびく。/
世の民はこのしもべに望みをかける」(マタイ12:18、本田訳)。
・2000年の歴史で、イエスに望みをかけて、「キリストの体」の一員として生きた人々の隊列に、この日
本の地で、21世紀前半という時において、私たちも、聖霊の風を豊かに受けて加わっていきたいと思い
ます。