なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(317)

        船越通信癸械7 2017年6月11日    北村慈郎

・6月4日(日)はペンテコステの礼拝でした。礼拝後昼食会を持ち、懇談して散会しました。この日は来

週の日曜日の準備をして、裏の崖の雑草を刈り取ってくれていたSさんに声をかけ、午後2時過ぎに連れ合い

と船越教会から鶴巻に向かいました。

・この週はいつも火曜日午後にある農伝の授業が休講でしたので、6日(火)は午後4時過ぎに鶴巻を出て、午

後6時から蒔田教会の教育会館で行われる常置委員会に直接行きました。この日の常置委員会は、7名の秋季正

教師試験受験志願者の面接があり、6月24日開催の教区総会のためにまとめておかなければならない報告や議

案もあり、終わったのが午後10時半ごろでした。7名の正教師受験志願者の所信表明の中で、一人の方が、自

分の所属している教会は20数年洗礼を受けていない人でも希望すれば誰でも与かることが出来る「開かれた聖

餐」を行ってきたが、2年前教会の決断としてクローズドの(洗礼を受けた人が与かる)聖餐式に変えたとい

う発言をしていました。なぜ正教師受験志願者の面接の所信表明でそのような発言をしたのか、憶測すれば、

「開かれた聖餐」を行ったということで私を免職処分にしている現在の教団の教師検定試験を通るためでは

ないかと思えてしまいます。何とも後味が悪い発言を聞いてしまったと、私は感じました。また、教師検定

試験を受けるみなさんに、教団の正教師・補教師は戦時下教団が国家の要請の下に作られた制度で、戦時下

教団の戦争協力と深く関係していること、そういう点では現在の教団の教師検定試験そのものが、国家に妥

協してつくられた戦時下教団の二重(二種)教職制度の問題性を克服していないということを踏まえてもら

いたいと、フロアーからの意見がありました。

・教団の万博・東神大問題をはじめとする70年問題の一つに、教師検定問題があります。詳しいことはここ

で述べることはできませんが、私も10年間正教師受験拒否をして、1979年名古屋の教会時代に正教試験を受

けて、正教師になりました。しかし、70年以来正教師試験を受験しないで補教師のままでいる人、教師検定

試験ができなかった一時期、信徒伝道者の取り扱いがあり、その信徒伝道者としていまでも活動している人

もいます。また、その後補教師試験を受けて補教師になり、正教師試験は受験しないでいる人もいます。こ

の船越教会ではK・Tさんの時代には、K・Tさんが補教師のままでいることを選び取ったと聞いています。教

団の二重(二種)教職制の問題は、今も未解決のまま教師検定試験だけが行われているのが、教団の現状で

す。以前明日の教団を考える会で教団改革マニュフェストをつくったことがありますが、その中にもこうい

う項目が入っています。「二重教職制の問題と教師検定問題の解決を図り、教師検定問題で教団教師から疎

外されている受験拒否者(補教師も信徒伝道者も)及び福音主義教会連合で按手礼を受けている者は、本人

の希望があれば、すべて教団正教師にする。また希望がない場合もその人を教団正教師に準ずる扱いをする」。

「二重教職制の問題と教師検定問題の解決」は、戦時下教団の国家への迎合の誤りを認めなければ、解決の

道はありません。以前私が常議員であったときに、常議員会の中に教憲9条検討委員会がありました。教憲

9条とは、「本教団の教師は、神に召された正規の手続きを献身した者とする。/教師はこれをわけて、正

教師と補教師とする。/正教師は按手礼を領した者、補教師は伝道の准允を受けた者とする」です。この教

憲9条検討委員会が総会期2期にまたがって活動をしましたが、結論は検討委員会としての破産でした。検討

できないというのです。この検討委員会は、戦時下教団の成立の問題に踏み込むことなく、小手先の処置を

考えていたので、破産せざるをえませんでした。教団として戦時下教団成立の誤りを認めて、二重教職制の

問題性を明らかにして、教団として出直すこと以外に、この問題の解決はありえないのです。その際当然

二重教職制の手直しではなく、教職と信徒の問題を踏まえた上で、必要ならば新しい教職制度を考えて行か

なければなりません。現在の教団執行部は教団成立の問題には全く触れようとしませんので、その姿勢から

は二重教職制の矛盾の解決は永遠にあり得ないと思われます。

・常置委員会では、私の方から常置委員会提案にしてもらえるように四役にお願いました明日の教団を考え

る会でまとめた二つの議案(日本基督教団教師委員会・審判委員会の北村慈郎教師に対する不当な戒規適用

が無効であることを確認し、北村慈郎教師の免職処分を撤回すると共に、日本基督教団において聖餐につい

ての論議の再開を求める声明を出す件」と「『二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白』

50年を覚え新たな行動をおこす決議の件」)について、最後に審議しましたが、二つとも常置委員会提案

になりました。

・今回は常置委員会が終わったのが午後10時半ごろでしたので、いつもの有志による会食はなしにして、

それぞれ家路につきました。この日私は鶴巻にではなく、船越教会に泊まることにしました。7日(水)

朝船越教会でプラスチックのごみを出したから、鶴巻に戻りました。

・9日(木)は、午前11時少し前に鶴巻を出て、国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに出かけまし

た。小田急に人身事故があり、相模大野から中央林間に出て、半蔵門線で永田町まで行きました。地下鉄

永田町の駅中で昼食をすませ、ちょうど午後1時に参議院会館前の座り込みの場所に到着しました。この日

はいつも千葉から来る人は、雨でお休みということで、私を入れて4人で座り込みました。少し離れたと

ころには5~6名の妙法寺のお坊さんが太鼓をたたきながら抗議行動をしていましたし、私たちの座り込みの

左右には共謀罪反対の方々が抗議行動を続けていました。途中から別のグループがやってきて、ボリュー

ムのあるスピーカーと鈴や笛やフライパンでにぎやかな抗議行動を行っていました。途中から日の丸を掲

げた右翼が来ましたが、その前に警官が立ちはだかり、共謀罪反対のグループに近づかないようにしてい

ました。共謀罪反対の方々は夜まで抗議行動を続けるということでした。私達は4時で終了し散会しました。

9日(金)は、午前中秦野日赤で前立腺肥大の診察を受け、午後は寿の炊き出しの配食にボランティアの一

人として加わり、夜は船越教会で聖書研究を担当しました。牧会書簡の時代の教会について考えました。