なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(28)

船越通信№28   2011年10月23日     
 
   先週の日曜日はS先生が船越教会の礼拝説教をしてくださいました。ありがとうございました。私は群馬のK教会で礼拝説教と学習会でのお話を担当させていただきました。K教会からは連れ合いと一緒にということでしたので、二人で行ってきました。16日の朝550分に鶴巻温泉駅で小田急に乗り、代々木上原で地下鉄に乗り換え北千住まで行き、北千住で東武鉄道に乗って、新桐生駅に着きましたのが920分ごろでした。新桐生駅にはOさんが自動車で迎えに来てくれており、その車に乗って教会に向かいました。Oさんは、お嬢さんが紅葉坂教会の会員で数年前私が彼女の結婚式の司式をしましたので、私も何度かお会いしている方でした。昨年9月にも群馬の高崎で「免職問題」の集会があり、発題者の一人として私も伺いましたが、Oさんはこの集会の開催の実現に努力してくださいました。礼拝にはまだ時間があるからと、水道山(?)という桐生の町に水を送る浄水場のある公園になっている小高い丘に案内して下さいました。そこからは桐生の街が一望できました。Oさんの説明を聞きながら、ちょっと霧のかかったような薄い白幕の向こうに広がる桐生の街を眺めました。その内に雲がなくなり青空が広がっていき、秋晴れの素晴らしい天気になりました。
   礼拝では、マルコ福音書1228-35節をテキストに「神に国から遠くない」と題して、神を愛することと己のごとく隣人を愛すること、すべての掟はこの二つに尽きるという律法学者とイエスの問答になる「最も重要な掟」についてお話ししました。まずアメリカのようなキリスト教の社会にはクリスチャンの人口が日本の比ではないわけですが、クリスチャン人口が多いからと言って、ではアメリカは神のみ心にふさわしい国だろうかと問いかけました。20世紀半ばから現在まで世界のどこの国よりも多くの戦争に関わり、現在もイラクアフガニスタンに軍隊を送り、人殺しをしているのです。この現実を知る時に、クリスチャンが多くなれば、この世の中は神のみ心にふさわしい神の国の義(本田哲郎さんは「解放」と訳しています)と平和と喜び(ロマ14:17)に満たされるかというと、そうとは言えないのではないでしょうか。今日の聖書の個所からすれば、神を愛することと己のごとく隣人を愛すること。この掟を通して、神が、かく生きよ、そうすれば命に至る、と私たちに指示している道を私たちが歩んでいかなければなりません。
   ところが、第一の掟はただひとりの神を愛すること、第二の掟は己のごとく隣人を愛することであるという点においては、律法学者とイエスは同じなのですが、この最も重要な掟を生きるということにおいて、両者には根本的な違いがあります。マルコ福音書7章にコルバンの物語があります。そこでは、ファリサイ人たち及び律法学者は、この二つの掟の内第一の掟を優先して、コルバン(神への供え物)と言えば、お腹の空いている父母に食べ物を与えなくてもよいと教えていたようです。イエスはこのような律法学者に対して、「あなたがたは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と言って批判しています。イエスにとっては、父母に食べ物を分かつことが神への供え物をささげたことなのでしょう。己のごとく隣人を愛する(大切にする)ことはただひとりの神を愛することであり、ただひとりの神を愛することは己のごとく隣人を愛することなのです。神はイエスを通して最も小さくされた者を愛する(大切にする)方ですから、真の神礼拝はその神が大切にしておられる最も小さくされている人と共に神を礼拝することなのです。教会で日曜礼拝をすることは確かに大切なことです。しかし、ただひとりの神を礼拝するということは、私たちだけがここで礼拝をささげているということではなく、ここにはいらっしゃらなくても、この街に住むさまざまな痛み・苦しみを背負っている方々と共に礼拝をささげることなのではないでしょうか。
   このK教会での説教は、来月発行されます福音と世界12月号、私の随想メッセージの中でも触れていますので、そちらもご覧になって下さい。
   さて、今回K教会牧師の意向をくんでK教会は、私をただ教会の礼拝と学習会に招いてくださっただけではなく、さぞ戒規免職処分を受け私たち夫婦は疲れていることだろうからと、16日の教会での務めが終った後、山の中の一軒宿梨木温泉で私たちにゆっくり休ませてくださいました。Oさんが車で宿に連れて行ってくれました。梨木温泉宿は少し茶色がかった泉質の温泉でいい感じでした。料理もおいしく、山間の静かな所でしたので、騒音もなく、本当にゆっくりと休めました。翌日の17日は朝9時半に牧師さんとOさんが車で私たちを迎えに来てくださり、星野富弘美術館と足尾銅山跡と紅葉の日光中禅寺湖華厳の滝の紅葉が素晴らしかった)とめぐってくださり、午後437分の東武日光駅から新宿行きの電車に間に合わせて下さいました。大変細やかなご配慮をいただき、教会の講師に招かれてはじめての体験でした。Oさんのお話では、K教会の牧師さんは私の戒規免職処分に対して教団教師の一員として強く責任を感じておられるので、先生ご自身が今回の計画を立てられたということです。そのように思っていてくださる教師が教団の中にいらっしゃることは、私にはひとつの灯です。ありがとうございました。
   1020日の聖書研究には私を含めて5人が出席し、本田哲郎さんの『聖書を発見する』3章「神はだれを選んだか」の後半を一緒に読みました。ダビデも十二弟子の選びも、そしてパウロの選びも社会的弱者の選びであると、本田さんは言います。そしてその神の選びはイエスに極まり、第二イザヤの「苦難の僕」に触れ、「ヤハウェの望みは、その貧しく小さくされている人たち、そしてナザレのイエスをとおして実現する」(145頁)と。神の力は貧しく小さくされた人々の解放において働くことを、マタイの山上の説教の祝福の教えで示し、抑圧からの解放に働く神の力としての福音は「元気にしてくれる力」であると。私には共感できますが、伝統的な信仰者には本田さんの聖書解釈はどのように受け取られるでしょうか。