なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(36)

 今日は土曜日ですが、説教準備の合間に読みかけていた鹿島茂吉本隆明1968』(2009年、平凡社新書)を読了しました。途中でやめることができなかったからです。また、何れこの本から学んだことをまとめてみたいと思っています。今日は「黙想と祈りの夕べ通信」(36、復刻版?)を掲載します。
 
  黙想と祈りの夕べ
   (通信 36 2000 64発行)
 
 前回の「黙想と祈りの夕べ」は、その日の朝の礼拝と午後の特別集会でS牧師からお話を聞いた後にありました。「黙想と祈りの夕べ」のロ-ズンゲン主日聖書箇所は詩編96篇とヨハネ福音書16章23b以下でした。詩編96編11節12節には、このように記されています。「天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ/海とそこに満ちるものよ、とどろけ/野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め/森の木々よ、共に喜び歌え」と。また、ヨハネ福音書16章33節には、「あなたがたは世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」とあります。この詩編の終末論的な喜びの歌と、ヨハネ福音書のキリストの勝利は、私たちの日常の中でどのように信じられるのでしょうか。特にこの日S牧師からお聞きした自殺した女性のことを思いながら、私はこれらの聖書の言葉について考えさせられました。S牧師のお話にあった自殺した女性は、親しい人に繰り返し胸のうちを訴えていて、その都度その人によって励まされていたそうですが、彼女の絶望的な状況を思うと、その人もついに彼女に自殺しないでとは言えなくなって、電話で自殺したいという彼女に、その人は彼女の自殺を受け入れる言葉を語らざるを得なかったというのです。そういう現実のあることを踏まえて、上記の聖書の言葉をどのように聞くのかと、私自身問われているように思いました。
 一人の姉妹は、賛美歌を歌いたいと思い、月2回、歌をうたう会に入り、その会が自分の楽しみになり感謝である、と話されました。また、もう一人の姉妹は、自分が今直面している問題について示唆を受けたいと言って、次のように話されました。
 以前自分が関わった離婚後に自死した若い女医さんのお母さんから、10年ぶりに夜中に電話があり、それが数日続いている。そのお母さんは娘の死を今でも受け入れられないでいるようだ。どう対応してよいか分からないので、この「黙想と祈りの夕べ」に出て、示唆を与えられればと思うと。彼女は、もう一人別の友人で、娘をオ-ストラリアで殺人で亡くしたお母さんのことも話しました。そのお母さんの場合は、娘さんが殺されたオ-ストラリアの町が、娘さんを覚えて碑を建て、ご家族を招待して、再び同じことが起こらないようにと誠実に対応してくれたことによって、不条理な娘の死だが、その死を受け入れているように思われ、この二人の母親の対照的な姿に考えさせられると言われました。 この日の「分かち合い」では、この姉妹のお話をめぐって、しばらく話し合いの時を持ちました。娘の死を受け入れられないお母さんへの対応としては、語るべき言葉はないのではないか。ただできるだけ、電話を受けたときには、そのお母さんに自分の時間を明け渡すつもりで、ゆったりとした気持ちで聞くことではないか。そのために受手である姉妹は体調を整えておくように心がけるということではないか。このような話し合いがありました。
 つくづくと私たちの中にはさまざまな人間の苦しみや痛みがあることを思わされます。何かの本で、近代社会は快を求めてやってきたが、その結果苦(痛)が取り残されてしまったのではないか。むしろ少しでも人間の苦(痛)を和らげるために共に生きることこそ、私たちの目指すべき道ではないかということが書かれていたように思います。本当にそうだと思います。