なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(20)

 この説教におけるイエスの描き方に対して、「マリアの子」(私生児の子)、「大工」(石工として被差別者の仕事)を強調すると、故郷で受け入れられなかったイエスのイメージが膨らむのではないかという指摘を受けましたが、私には福音書で描かれているイエスが特別に虐げられた出自の人であるとは思えませんので、そういうイエスの描き方を避けました。
 
マルコ福音書による説教(20)
マルコによる福音書6:1-6a
       
  さてこの記事は、イエスが故郷(ナザレ)の会堂で教えられた、ということが発端となっています。イエスの教えを聞いた故郷の人々は、その〈知恵〉と〈力あるわざ〉に驚いてしまいます。そして、その驚きがイエスへの躓きへと展開していきます。
  〈この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、シモンの兄弟ではないか。……云々〉と(3)。故郷の人々はイエスの教えを聞いて、何故このような反応を示したのでしょうか。可能性としては、全く違う反応を示すことも考えられます。つまり、〈この人は大工なのに、マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、シモンの兄弟なのに〉、こんなに立派なラビになって故郷に帰ってきた。彼の教えは、どのようなラビよりも力強いし、説得力もある。我々故郷の誇りうる人物だと。このように故郷の人々が反応しても可笑しくはなかったでしょう。
  以前名古屋にいた頃、新聞にこんな記事が載っていました。元最高裁長官であった横田喜三郎氏が、江南市の名誉市民第一号になったという記事です。江南市は、名古屋から犬山へ行くその途中になる町ですが、横田さんの故郷だそうです。ひとつの業績を残した人が、その故郷から名誉を与えられるということはしばしばあることです。
  エスの場合は、そのような具合にはいかないで、故郷の人々にとって躓きでありました。それは、イエスが誰でも羨望するような形で立派な人物ではなかったからです。羨望と嫉妬を引き起こす立派さであれば、人はそれに躓くことはありません。この世的に「偉い人」は故郷で敬われこそすれ、躓きとなることはありません。
  〈この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。また、その姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか〉。このような彼らの言葉の中には、イエスについて、赤ちゃんの時からよく知っていて、彼らが了解している範囲を越えてイエスのことを考えられないという思いが現れています。〈あの人は大工で、マリヤのむすこで……〉、つまり、「平凡な自分たちと同じただの人間に過ぎないでなかいか」と。故郷の人たちが、イエスを何か特別な人間としてではなく、自分たちの身近な、ただの人として把えたのは、正しい見方であります。イエスはただの人であり、人間そのものであります。或は故郷の人々にとって、イエスが小さいときから何か神的な力を備えていて、特別な人間として見られていたとすれば、イエスの知恵や力あるわざを、当然のこととして受け止めたかも知れません。そうでなく、彼らがここでイエスに躓いたということは、まさしく、イエスが故郷の人々の前に(それは私達の前に)、イエスは〈大工〉として〈マリヤの息子〉として、兄弟や姉妹に囲まれた者として立ち給うことを意味しています。そのようなイエスは、まさしく身近な存在です。特別高貴な人間、郷里の人々の手の届かない人間ではないのであります。身近で、何の抵抗もなく親しく関わることが出来る方です。そのようなただの人としてのナザレのイエスにおいて、神はご自身の一切を啓示されたのです。
  しかし、ここに、イエスの故郷の人々と共に私達も躓くのではないでしょうか。そして、「彼らの不信仰を驚き、怪しまれた」と言われているように、人間が持つ暗さとしての不信仰が、そのようなイエスの前にあらわされるのであります。人々は、イエスから教えを聞いたとき、〈この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力ある業が、その手で行われているのはどうしてか〉と言っています。つまり、イエスに対する躓きは、神が神としてご自身を現された時に生ずるであろう〈知恵〉や〈力あるわざ〉(奇跡)が、ただの人としてのナザレのイエスにおいて起こるなどということがあるのだろうか、という点であります。しかし、イエスのこの不可解な事の中に、私達は神のみこころを聞き取らなければなりません。
  ナザレのイエスはただの人間です。そういう意味で人間そのものです。私達は誰一人自分がまとっている人間性と何か異なる特別な人間性をイエスがまとっていると考えてはなりません。全く私達全ての人間と同様に、イエスはこの世に生まれ、この世を生きたのです。ですから全ての人間がこの世に生きていくかぎり負わなければならない負い目をイエスもまた完全に負っておられます。イエスには親族があり、故郷があり、彼は民族の一員としてのユダヤ人であります。又彼は時代の子です。(私達が21世紀前半という固有な歴史を、日本で生きているのと同じように、イエスは紀元前4年頃から紀元後30年頃までの固有な歴史をユダヤで生きたのです)。衣食住をかかえた生活者であります。飢えや病気や死に直面しなければならない人間であり、複雑な社会構造の中でその制約を受けて生きているただの人です。
  しかし、そのような人間性を負う私達は、孤独であります。自分の力で、ひとりで生きて行かなければならないという点で。ところが、イエスの場合は孤独ではありません。聖書によりますと、イエスは神に幼子のように祈りました。「アバ父よ」と。イエスはどんな時にもこの祈りを失うことはありませんでした。イエスは独り子として、神との交わりの中に立っておられるからです。ひとり投げ出され、葦のような存在ではありません。イエスは人間イエスとして私達と同様にこの世の秩序の中に立っておられますが、しかし、イエスは神の秩序の中にあります。ここにイエスの人格の秘密があります。イエスは孤独な方ではなく、本質的に交わりの中に、神との連帯の中にある方です。
  このようなイエスの存在を、神の行為という方向から見ますと、神がイエスにおいて全ての人間に対する愛を示されているということです。つまり、ナザレのイエスというただの人の生涯と死(十字架)と復活において、神はすべての人間に対する働きかけを遂行されているのです。その意味で、イエスにおいて私達は活ける神に出会うのです。(ですから、ナザエのイエスを素通りして、神ご自身に、神の愛と慈しみに、神の審きと怒りに、他のところにおいて触れることはできません)。
  (私達は、神について、様々な観念やイメ-ジを持つことが出来るでしょう。神は人間の不幸を見過ごしにしない恵みの神だとか、神は全知全能だとか。しかし、イエスを媒介としないで考えられた神についての観念は、何の現実性もありません。空虚なものです。又、イエスと無関係に主張される、あらゆる神の権威というものは、偽りの神であり、人間が勝手に自分を権威づけたり、正当化したりする、人間の自己主張の仮面に過ぎません。
  人間としてのナザレのイエスにおいて、神がご自身を啓示されるということは、真実な人間イエスとの関係において、神の真実が明らかにされることを意味します。つまり、神が神としてご自身をあらわすときには、人間が人間として真実なものになるということとの関わりでなされるのです。そのことを離れて、神はご自身を啓示し給わないのです)。
  ナザレのイエスはただの人間です。特別な人間ではありません。しかし、同時にイエスは真実な人間です。人間が何によって生き、他者との関わりにおいてどうあるべきかという、人間の本来的な姿を、イエスは具現しておられる方です。イエスはアバ父よ、と祈ることによって、人間が神の子供であること、神の配慮の下ではじめて真実の人間として立ち得ることをしめしておられます。
  十字架上でイエスがあげた「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という悲痛な叫びには、その背後に深い神信頼があらわれていると言えます。イエスは自分の生を自分だけで考えたり、自分だけの欲望によって満たそうとはされませんでした。徹底的に父なる神への信頼によって、イエスは神と離れた人間の生が真実たり得ないことを明らかにしておられるのです。「主なる神と神の愛の力によってこそ人間は生きる」。これが人間イエスがご自身によって明らかにした真理です。
  それと共に、イエスが十字架に至る、その生涯の歩みにおいて、神の下に生きる人間が様々な人間関係の中で、どのような道を進むのかということも、同様に明らかにしているのです。マルコによる福音書 10:45には、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」とあります。この言葉の中には、イエスが人々の中でどのように歩まれたかが明らかに示されています。〈仕えられるためではなく、仕えるため〉に、イエスは来たのだということによって、イエスは神の愛を人間と人間との関係の中で確立してゆくことを求められたのです。
  しかし、このようなイエスは、私達にとっては躓き以外の何者でもありません。イエスの真実によって、私達の偽りが明らかとされるからです。私達が何を基盤に生きているか、そこから他者との関わりをどう形成しているか。それらの一切が、イエスにおいて問われてしまうからです。私達はイエスの前に立つときに、みじめな歪んだ人間にすぎないことが示されます。しかし、そこからイエスを通して私達は、イエスが立ち給う所に立つべく招かれているのです。
  信仰とは、躓きとしてのイエス聖霊の力によって私達の中に受け入れさせていただくことです。その時に私達は、イエスと共に、ただの人間として、しかし孤独な者としてではなく、神との交わりの中に、つまり、神の秩序の中に豊かな神の愛を受けつつ歩むことがゆるされているのです。
  もし躓きとしてのイエスを拒絶してしまったとしたら、私達ははいつまでも孤独な者として歩み続けなければなりません。我を張りながら。そのような者にとっては、救いが閉ざされているのだということが、故郷の人々がイエスにとった行為において、私達に示されているのであります。