なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(41、復刻版)

 11月になり、私には小さな喜びがあります。前にも書きましたように、鶴巻を牧師隠退後(まだ船越教会で週の後半は牧師として働かせていただいていますので、半分の隠退ですが)の場所に選んだのは、鶴巻温泉と言われるように、この鶴巻には温泉があるからです。弘法の里湯という秦野市がやっている日帰り温泉は、銭湯のように気安く入浴出来ます。その弘法の里湯が、小田急鶴巻温泉駅前に出た源泉を新しく引き込み、今までの源泉に加えて二つの源泉を楽しむことのできるための工事で、8月中旬から10月末まで休業していました。その弘法の里湯が111日に再開したのです。さっそく2日に行きました。内湯が新しい源泉で、今までのは露天になっていました。比較的空いていましたので、ゆっくりと温泉を楽しんできました。これから戒規免職の問題で裁判に持ち込みますが、今後相当ストレスもあるでしょうから、裁判の疲れを弘法の里湯で癒しながら、取り組んでいきたいと思っています。  
 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信」(41、復刻版)を掲載します。
 
黙想と祈りの夕べ
   (通信 41 2000 79発行)
 
 7月2日の「こどもと大人の合同礼拝」の説教テキストは、ロマ書6章の洗礼に関する箇所でした。その説教で、私は、私たちが自分を何者であると認識しているかということの大切さについて話しました。パウロはロマ書でイエス・キリストの死と復活に私たちが洗礼において一体化することを語っています。私は、バルトのロマ書6章の解釈に基づいて、あのゴルゴダの十字架の死とアリマタヤのヨセフの墓への埋葬、そして三日目の復活というイエスの出来事において、私たちが死にそして甦ったのだということをお話しました。パウロはこのことの中に、私たちが、罪の自己に死に、新しくされて神に生きる実存として今生きていることを見ています。ですから、ロマ書14章7、8節でこのように言うことできました。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人はいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」と。この私たちがイエスのものであるということが、「生きるにしても、死ぬにしても、私たちの唯一の慰めは何ですか」というハイデルベルク信仰問答の序の問いへの答えなのです。私たち人間の唯一の慰めが私たちがイエスのものであるという、この聖書のメッセ-ジに、私はこれまでも随分助けられてきたように思います。私の生と死の中にイエスの生と死が、イエスの生と死の中に私の生と死があるという信仰は、深いところで私に自己へのこだわりを解く自由を与えてくれるように思えるからです。イエスの出来事には、何かこの世と人間の歴史の終焉であり始まりであるような、不思議な音信が聞こえるように思います。
 以上のことと、その日の聖書朗読箇所であった詩編36篇の神の慈しみの確かさについての感想を、私は前回の「黙想と祈りの夕べ」の「分かち合い」の時にお話させてもらいました。ちなみに詩編36篇6節以下にはこのような言葉があります。「主よ、あなたの慈しみは天に/あなたの真実は大空に満ちている。/恵みの御業は神の山々のよう/あなたの裁きは大いなる深淵。/主よ、あなたは人をも獣をも救われる。/神よ、慈しみはいかに貴いことか。/あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ/あなたの家に滴る恵みに潤い/あなたの甘美な流れに渇きを癒す。/命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る」。
 「分かち合い」では、一人の姉妹が自らの前月6月の生活を振り返り、自分の気持ちをお話してくださいました。6月には、今まで経験のなかった地区の老人会の旅行に行ったりして、楽しい時を過ごせた反面、体調を崩し、礼拝に出席することもいつもより少なかった。最近にはない一月だったように思う。新しいこの7月は、希望につなげていける生き方をしたいと、「黙想」の中で祈り、考えた。自分は弱い者であるが、同時にいつも心を高く、主に向けて励みたいと願っていると。
 私たちの歩みはいつも平坦というわけにはいきません。比較的調子の良い時もあり、逆に余り調子が良くない時もあります。それが私たちの自然ではないかと思います。姉妹が、「自分は弱い者であるが、いつも心を高く、主に向かって励みたい」とおっしゃったその言葉に真実を感じました。讃美歌21の18番のように、「こころを高くあげて、主のみ声にしたがい、ただ主のみを見上げて」歩んでいきたいと思います。