なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(146)復刻版

 昨日は昼ごろから、秦野戸川公園に連れ合いと行ってきました。秋晴れの爽やかな日で、空も蒼く、丹沢の山並みも美しく、森林浴もすることができました。戸川公園から1.5キロほど、なだらかな登り道を行くと竜神の泉という、地下水が湧いていて、二か所の蛇口からその湧水をペットボトルに入れることができるようになっているところがあり、そこを往復してきました。戸川公園にはコスモスが咲いていましたが、昨年よりも背が小さめで、花も何となく控えめな感じでした。今年は夏の暑さが長かったので、その影響かもしれません。戸川公園は、私がいる鶴巻温泉駅から小田原に向かって三つ目の渋沢駅から、バスで20分ほどのところにあります。帰りには鶴巻温泉の弘法の里湯で、山歩きした体のの疲れを癒し、午後6時頃には家につきました。

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(146)復刻版」を掲載します。

  
      黙想と祈りの夕べ通信(146[-41]2002・7・14 発行)復刻版

 この黙想と祈りの夕べが始まる少し前に、Fさんからまた電話がありました。一時落ち着いた電話が続いていましたが、このところ大分攻撃的な感じが強くなってきました。詳しいことは分かりませんが、Fさんはもう十数年前に当教会と関わりを持っていたようで、その頃に本人としてはいたく傷つく経験をしたというのです。事実は確かめようもありませんし、確かめようとも思いませんが、本人としてはそう感じているのです。しばらく前に胃腸の病気でFさんは根岸の日赤病院に入院しました。私も一度見舞いました。その時は、心身が弱っていたこともあるのでしょうが、これからは聖書の勉強を信頼する牧師についてしたいと言っていました。

退院してしばらくしてから、その話はしなくなりました。そして、以前のように教会は建物や牧師の生活の維持のために献金のことばかり言う、貧しい人や困っている人のためになっていないと、教会批判が出るようになりました。私はそれを聞いて、病院で言っていた信頼する牧師との関わりもスムーズでなくなったのではと、残念に思いました。病気という予期せぬ出来事が、今までのFさんのこだわりを解く方に向かえばと、私は内心期待もしましたが、そうはいきませんでした。

心についてしまった傷はなかなか癒されないものですが、Fさんも苦しいに違いありません。私も連れ合いも当教会に来て7年強が経ちますが、一度ずつFさんから殴られたこともあり、何で自分たちが直接彼との関係で与えたわけではないのに、一方的に彼から非難の電話を受け続けなければならないのかと思うこともありますが、彼から来る電話は受け続けようと思っています。この黙想と祈りの夕べでは久しぶりですが、Fさんのことも祈りの中に加えていただけたら幸いです。

 上記の私の発言に続いて、一人の姉妹が下記のような発言しました。昨日I兄、今日O兄の一年の追悼の集いがあった。故人を偲ぶ話をしていたら、過去の大先輩方の思い出を話していたときに、最近は風格のある人がいなくなったという発言が、昨日の集いでも今日の集いでも出た。家族制度が生きていた以前は、家長ということで、周囲の人たちもそれを期待し、本人自身もそれらしく振る舞うところがあった。そのようなことからいわゆるある種の風格が身についたのではないか。女性が強くなったので、男は風格がでにくくなったという見方もある。女の人も昔の人にはそれなりの風格を感じさせる人もいた。

風格があるということが、よいことかどうかは問題もあるが、一人一人がその一なりの個性としての香りを放つということは、大切なことで、これからも大いに求めて行きたいと思う。N兄が召されて、つくづくとN家の方々にとって兄が扇のかなめのような存在だったことが分かる。遺された他の方が兄がしておられた同じことをするのは難しいと思うし、そうする必要もないと思うが、それぞれがお互いの良さを、内からの香りとして放ちつつ、生きていけたらと思う。

 また、一人の兄弟は、自分の母校のことについて発言した。今年自分の母校は創立130年を迎えた。自分が卒業したときは、120周年だった。自分の故郷では歴史のある学校で、スポーツも盛んだ。特にスキーが強い。また、今から20年前には甲子園にも出場したことがある。今年はソルトレイク・オリンピックに卒業生の何人かが出場した。今自分が勤めている会社でも、母校に求人募集をしていると。



            洗礼の意味(『ルターの日々のみことば』より)

 「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きて  いる者であることを、認むべきである」。  ローマ6:11

 このようにこの人は、全くきよくきずなく、神聖なものに造りかえられています。これは、神のしるし、すなわち洗礼を受けていることを意味しています。これは彼のすべての罪が死ぬことを示しており、彼は恩寵のうちに死に、終わりの日に再びよみがえり、純粋になり、罪から解放され、永遠に生きることを示しています。このように礼典によって、彼は罪から解放されて純粋であることは真実ですが、しかしまだ完了していませんから、罪にみちた肉のうちになお生きていますし、まだ罪から解放されてはいませんし、あらゆることから純粋でもありません。しかし、純粋できずなきものになりはじめているのです。

けれどもあなたがたは言うでしょう。もしも洗礼が完全にわたしの罪を殺し、きよく洗わないとすれば、洗礼は何の役に立つのですか、と。ここで理解すべきことと、洗礼の礼典の知識とをのべましょう。
第一に、あなたがたは礼典に服従しますが、その意味は、あなたがたは罪に死のうと欲し、礼典の手段によって、終末の日に新しくされようとすることを示します。神はこれを受け入れ、あなたがたが受洗することをゆるされます。この時から神はあなたがたにその恩恵と聖霊をそそぎ、あなたがたの罪にみちた性質を殺し、あなたがたに死を準備させ、最後の日に再びよみがえることを始められます。

さらに、もしもあなたがたがこのようにして、生きるかぎり、そして死に至るまでも罪を征服することを約束するならば、神はそれを受け入れて、地上の全生涯を通じて多くのよきわざと多くの苦しみとをあなたがたに備えてくださいます。こうして神はあなたがたが洗礼で望んだことをなしたまいます。それは、罪からあがなわれ、最後の日に新しい生命によみがえることです。