なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師室から(27)

 今日は「牧師室から(27)」を掲載します。これも1998年に教会の機関誌に書いたものです。古いものですが、その時と今の私とはそう変わっていないと思っています。

                 

                  牧師室から(27)

 私たちの教会の礼拝に出席する方の何人かから、私は「元気じゃないと、今の教会の礼拝には出にくい」という言葉を聞いています。このことが、私には大変気になっています。「元気が出る教会」ということならよいのでしょうが、「元気でなければ出にくい」というのでは困るように思うからです。このような感じをもっている人が、どのくらいいるのかはいよく分かりません。けれども、一人、二人ではなさそうです。

 ボンフェッファーの『交わりの生活』の中に、たしか「共にいる時」と「ひとりでいる時」というような項目があって、私たち信仰者にとって、共にいる時だけではなく、ひとりでいる時の大切さが語られていたように思います。もしかしたら、私たちの教会の礼拝やその他の営み全体から受ける印象として、共にいる時が祝福としてではなく、強制として感じるところがあるのかも知れません。特に交わりが薄く、まだ名前も余り知られていなかったり、礼拝に出て、誰とも会話をかわさずに静かに帰って行かれる方ならともかく、よく知られている方の場合には、ひとりになりたいときにも、ひとりになれないものがあるのかも知れません。

 この問題は、すぐには解決できないとしても、一つは、礼拝の時には一人ひとりがより真剣に神に向かい合うことによって、もうひとつは、私たちが他者の状況への配慮を細やかにして行くことによって、少しは違って来るのではないでしょうか。
                          1998年1月


 新しい年になってから五人の兄姉を天上に送りました。Iさん、Fさん、Y・Nさん、そしてKさん、M・Nさんです。三人の姉妹は90歳を越えていました。M・Nさんは81歳、Kさんは76歳でした。五人とも、ここ数年は年をとり病気も重なって、家族の方々に支えられながら、「存在することの静かな感動を分かち合うだけ」(見田宗介)の生活を、文字通り続けていました。見田は「…恋愛や性の領域だけに限らず、『思想を実践する』といった倒錯した生き方を、したくないと思う。存在することの静かな感動を分かち合うだけでいいのだ」と語っています。

 ここ数年の五人の生活はこの世の片隅で営まれ、知る人ぞ知るというものでした。家族の方とごく僅かな人だけにしか関心がもたれていなかったでしょう。でも、私は見田の言葉のように、この人たちの存在と生活には、人間としての根源的な在り様が表れているように思えてなりませんでした。虚構としての社会は、この人たちの存在には医療や福祉の領域では必要とされましたが、その他の、特にこの二月の祝日である「建国記念の日」に意図されているナショナリズムとは無縁でした。

 国家も軍備もなく、ただ「存在することの静かな感動を分かち合う」世界が、国や民族の枠を越え、男や女という性差を越え、大人や子どもという年齢差を越え拡がっていったら、どんなに素晴らしいかと思わずにはおられません。
                        1998年2月


 祈りについて、私は最近読んだ清水真砂子の『もうひとつの幸福』という本から教えられました。

 その本の中で彼女は、二十年ほど前にメキシコに旅した時に出会った「インディオ」の夫婦のことを書
いています。グアダルーベ寺院の前にある石だたみの広場でのことです。「気がつくと、私が立っているすぐわきの石だたみの上で、まだ若い女の人が胸に子どもをしっかりと抱き、ひざまずいたまま、一歩また一歩といざるように正面前方の寺院にむかって進んでいた。そのかたわらを、母子につきそうように男が歩いている。…質素な布にくるまっている母親の胸に抱かれている子どもに何があったのか。母親のひざはすりきれて、おそらくはとうに血がにじんでいるだろうに、彼女らは休もうとせず、そのまま進みつづけた。のろのろと、はるか寺院にむかって」。

 この時彼女は、「からだのずっと奥のほうから嗚咽がこみあげ…からだをふるわせ、声をあげて泣きだした」というのです。そのことが何であったのか、今だにわからないが、「この頃、ふっと、もしかしたら自分はあのとき、祈りというものにはじめてふれたのではないか、と思うのだ」と書いています。

 私はこれを読んで、主の祈りも、「深い人間の哀しみをかかえて、…祈ることがそのまま生きることである人々」と共にいのる祈りではないかと思えて、自分は今までそのような祈りをいのってきたのだろうかと反省させられました。
                            1998年3月