なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

「聖餐式について」 黙想と祈りの夕べ通信(82、復刻版)

 以下の「黙想と祈りの夕べ通信」は、2001年4月22日発行で、イースターの礼拝で行われた聖餐式をめぐって書かれています。

 私が紅葉坂教会の牧師として1999年3月の教会総会の決定によって、礼拝出席者で洗礼を受けていない人でも希望する者には配餐をするようになってからちょうど2年目、3回目のイースターの礼拝です。

 既にこの頃の紅葉坂教会の聖餐式のある礼拝では、礼拝出席者個々人の判断で陪餐に臨んでいたと思います。1999年3月の総会では、「洗礼を受け信仰告白をした者が陪餐できる」という教会規則8条削除とそれに伴って「希望する者は誰でも聖餐に与かってください」と、聖餐式の時に司式者が明言することが決まりました。

 その決定には数名の反対者がいましたので、その反対者の中には、その後行われた洗礼を受けていない人も希望する者は陪餐できる聖餐式の配餐を受けていない人もいたかも知れません。また、洗礼を受けていない人の中でも、自分は洗礼を受けてから聖餐式に与るという人もいて、その人は陪餐していなかったと思います。ただ洗礼を受けていない人にも希望する人は与ることができる聖餐式を行うようになってから、そのことが理由で礼拝に来なくなった人は、私の知る限り一人もいなかったように思います。

 1999年3月の教会総会の決定以前の数年の聖餐式に関する議論の過程で、転会していった2人は、はっきりと洗礼を受けた人が聖餐式に与るべきだという考え方を持っていました。一人は、紅葉坂教会の聖餐式に関する議論そのものを受け容れられないという思いがあったのでしょう。聖餐式の議論の過程で転会を申し出て、ちょうど結婚した相手の方の出席している他教派の教会に転会していきました。もう一人の方は、たまたま住んでいる場所の近くの教会にご家族で出席したいということで、転会されました。この方は今でも時々私との間でやり取りがあり、一貫して紅葉坂教会の決定には批判的です。ですから、今回の私の裁判についても支援はできないと手紙をくれました。ただカンパはしてくださいました。

 私個人として聖餐式を洗礼を受けていない人にも希望する者には与かっていただくことに踏み切った最大の理由が下記に記していますので、読んでいただければ幸いです。

          黙想と祈りの夕べ (通信 82[-30] 2001・4・22発行)

 イ-スタの礼拝を、小さな子どももお年寄りの方も共に守ることができました。イ-スタ-礼拝を「こどもと大人の合同礼拝」として行うようになって、今回が3回目になります。礼拝には聖歌隊の賛美があり、日曜学校の子どもたちの賛美もあります。それぞれ準備してイ-スタ-の礼拝に臨みます。今回は洗礼式はありませんでしたが、転入会式があり、聖餐式もありました。いつもの主日礼拝と比べますと礼拝そのものが豊かに感じられます。小さな子どものむずかる声も、礼拝を豊かにしているように思います。静粛な礼拝も悪くはありませんが、子どもたちの声が聞こえる礼拝は、ほのぼのとした感じがします。福音書の五つのパンと二匹の魚を分け合った5000人の共食の記事のように、イエスさまを囲んでさまざまな世代の人たちが、心踊らせて集まっているようで、そこに礼拝の原点があるのではないかと思います。

 さて、イ-スタ-の礼拝が終わって、私が受付に立ち、挨拶をしていましたら、この日の礼拝に旅行者として参加された大阪在住の兄弟が来て、当教会の未受洗者にも開かれた聖餐式、その他礼拝についての感想を話してくれました。その中で、私の出身神学校を聞いて、東京神学大学(以下東神大)出身者がそういう聖餐式をしておられるのはめずらしいのではとおっしゃいました。東神大出身者のほとんどは、その牧会する教会で聖餐式は受洗者に限られた形で行っているからです。幸か不幸か、私は70年の東神大機動隊導入問題以来、東神大とは距離を持って来ましたし、東神大出身者の牧師との繋がりもほとんどなく、どちらかと言えば単独で歩んで来ていますから、自分の中には「東神大出身者」という意識もほとんどありません。お話をしていて、この旅行者の方は、この日のイ-スタ-礼拝に好意的な印象をもって下さったようです。私は、「黙想と祈りの夕べ」の「分かち合い」で、この旅行者の方との話に触れ、未受洗者に開かれた聖餐式を行うようになった当初から考えていた課題について、以下のように話しました。

 小さな子どもたちの陪餐については、現状では保護者の判断に委ねて、教会としての判断は保留状態のままになっています。それも今後の聖餐問題に関わる課題の一つですが、私が一番大きな問題として考えていますのは、別にあります。それは岸本羊一牧師が『礼拝の神学』の中で、コクレ-ンという人の引用によって指摘している問題です。聖餐の政治性という問題です。関心のある方は『礼拝の神学』の84、85頁辺りを読んでみてください。そこに「現代における聖餐をめぐる緊急な課題は、こうして、抑圧的権威の象徴である聖餐ではなくて、『貧しき者、罪人たちと共に食事されるイエスに、自分もまた一人の罪人として赦された者の自由を共に祝う』(コクレ-ン)聖餐を、どのように見いだすかにあるといってよいのではないかと思われる」と記されています。この課題は、私たちの教会がどのような教会となっていくのかということと切り離して考えることはできません。言葉を換えて言えば、私たちが誰と共に主イエスの食卓を囲むのかという風にも言えるでしょう。
 
 「貧しき者、罪人たちと共に食事されるイエスに、自分もまた一人の罪人として赦された者の自由を共に祝う聖餐」を目指していきたいと思います。そうでなければ、本当の意味で開かれた聖餐にはならないでしょうし、ただ目先を変えるだけだとすれば、単なる伝統への冒涜ということになってしまうと思うからです。