なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(83、復刻版)

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(83、復刻版)」を掲載します。
 
 下記に記した横浜で演劇を続けているIさんから、数ヶ月前も切符をいただきましたので行こうとしましたが、その日は風雨が強く外出するのが困難で行くことができませんでした。次の機会にはぜひ彼の演劇を観にいきたいと思っています。

 さて、下記に記されているような「小さな眼差し」や「小さな声」が無視されがちな今の効率を第一とする社会は暴力的な社会と言えるのではないでしょうか。このことを自覚しながら、他者との関わりを時間をかけて大切にしていきたいと願わずにはおれません。

            黙想と祈りの夕べ (通信 83[-31] 2001・4・29発行)

 若い姉妹から、今自分のかかえている問題が話され、道が開かれるように願っているという発言がありました。

 続いて私は、22日の日曜日の午後に気気鵑演出した演劇を観賞しての感想を話しました。彼は劇団の責任を持ち、横浜をテ-マにした創作劇を十数年続けて公演しています。彼とは彼の青年時代にこの紅葉坂教会で知り合い、彼の演劇は時間の許すかぎり、出来るだけ観賞するようにしています。観る度に感じることは、彼の劇には、彼の優しさが表れており、友情のような人間の温かな絆が非人間的な冷たい現代社会に生きる私たちのある種の郷愁のように訴えられます。忘れ去られたものの大切さを喚起するようにです。私は彼には話したことがありませんが、彼の演劇を観る度に、現代の冷徹な現実を直視し、そこから失われたものの大切さを指し示すのではなく、その現実の直視を徹底する方向に視点をもって行ったらどうだろうか、という感想を持ちます。そして、現実の直視の徹底から見える未来を描けたらと思います。観賞者の身勝手な感想ですが。さて、彼の演劇を観るために横浜駅に行きました。西口を歩きましたが、その人の多さにびっくりしました。日曜日の午後に人の多い街を歩くことが殆どないものですから、カルチャ-ショックを受けました。リ-ツマンだったでしょうか、群衆の中の孤独をテ-マにした本を書いたのは。群衆の中の個という現象は、都会に生きる者の風景を現しているのかも知れません。教会が小さな群れとして、血の通い合った交わりを形成できればと願います。

 また、一人の姉妹は、この一週間に彼女のボランティアとしての働きで関わった3家族の障害をもった子どもから感じたことを話しました。5才の寝たままの女の子は身長も伸びた。お母さんがお兄ちゃんの授業参観と耳鼻科に連れていくために頼まれてボランティアに行った。その女の子におやつをとろみにして食べさせようとした時に、その子がとても寂しそうな顔をした。どうもお母さんがその子に声をかけないで出て行ったことを、寂しく感じているようだった。自分は出来るだけ楽しく遊んだ。また、別のボランティアでは、自閉の子を学校に迎えに行き、家に連れ帰った。その子に学校の話をすると、つねったりして、聞いて欲しくないのだろう。言葉が出ないので。別の2才半の自閉の子のところに行ったときは、その子がなぜ自分が来るのかを感じているかのように思えた。そのような子どもたちと関わっていると、注意深く見ていないと、見過ごしてしまう子どもたちの眼差しを感じる。日常の生活ではそういう小さな眼差しを見過ごして、忙しさの中に生きてしまい勝ちである。神は、そのような小さな眼差しを受けとめていて下さることを感じる。つくづくとそのような小さな者の眼差しを丁寧に見て行かなければと感じていると。

 小さな者の眼差しを受けとめるためには、私たちがその眼差しの前に立ち止まらなければなりません。けれども、追われるように自分の前方だけを見て歩いている場合には、私たちには他者の視線を受けとめる余地がありません。実際私たちは、そのように生きていることが多いのではないでしょうか。以前に一人の兄弟が、自分の仕事を休職して、末期ガンの妻を世話して、見取ったことがありました。彼の場合、仕事を休職できる条件が整っていたということはありますが、なかなか出来ないことです。他者の切実な眼差しを見過ごさないためには、立ち止まる勇気が私たちに必要なのでしょう。