なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(34)

     マルコ福音書による説教(34) マルコによる福音書8:31-33
            
 
・イエスは自分の活動の行きつく先として受難と死を覚悟していたのでしょうか。

・今日のマルコ福音書の個所では、自らの受難と死についてイエスは弟子たちに、「そのことをはっきりと」語った、と言われています(31節)。イエスがご自分の言動を「はっきりと」(あからさまに)現されるときに、それに伴って必ず起こるのは、その受け手であります私たちの中にあるイエスと相反する否定的な現実が浮彫りにされます。今日のテキスト(マルコ8:32-33)に出てくるペテロは、そのことを見事な形で示してくれています。

・イエスは自分が、「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを」弟子たちに教えられた(31節)と言われています。これがイエスの死後、イエスの十字架と復活を経験した弟子たち(初代教会の人々)による事後預言(イエスは実際に語らなかったが、後から生前のイエスが語ったものとした)であるか、受難の前に実際にイエスが弟子たちに語られた予告であるかという詮索は、余り重要なことではありません。ここで私達が考えなければならないことは、この受難予告がイエスの歩まれた受難と死と復活という固有の道を示しているという点です。イエスの十字架と復活の出来事そのものです。

・イエスは十字架へと窮まる受難の道を、避けて通ることの出来ない自分の道として受け入れました。ゲッセマネにおける激しいイエスの祈りは、その不可避の道を選び取ることが、如何に深い葛藤を経た末の決断であるかを私達に伝えています。イエスにとって「人の思いではなく神の思いに」己を賭けることは、受難を回避する道を自ら断つことでもあったのです。

田川建三氏は、「イエスはおのれの活動を決して成功するものとは思っておらず、むしろ弾圧されつぶされるだろうけれども、それでもやむにやまれずやらねばならぬと考えて、活動したことになる。さらに死ぬことそのものに意味があると考えていたわけではなく、おのれの活動の帰結として受難を覚悟していたということになる。現象としてはそうであろう。そこでイエスが目指し、死を賭して立ち続けたものは何かを問うことが重要であろう」と言っています。

・イエスの言動は、神の支配が間近かであること。否今到来しているのだから、それにふさわしく呼応しなければならないというところにあります。彼の愛と真実は、そこから湧き出る力です。あの十戒によって神の意志に基づく人間の共同体がどうあるべきか、(神を神とし、人を人とする〈隣人を自分と同じように大切にする〉)が啓示されているわけですが、イエス十戒の方向性からは全く転倒してしまっている、人間がつくり出す現実世界を否定的に再転倒させる神の意志に即して振る舞ったと言えるでしょう。そのようなイエスの言動は、神の意志を人間の側に引き寄せ、歪曲して把えていた、律法的に教育されていた当時の人々にとって、神を否定するものとして映りました。全く方向を反対とするものが接触するところには、激しい衝突による火花が散ります。人間の可能性の中にあるよきものによる改革ではなく、根底的な方向転換がイエスの生涯による神の試みでありました。

・この神の思いにしたがって、イエスは十字架に窮まる受難の道を歩まれたのです。

・ペテロはイエスを脇へ引き寄せて、いさめはじめたと、言われます。ペテロはイエスの言葉とイエスが志向するところのものを理解できなかったからです。ペテロとイエスは、根本的に違うところに立っているのです。この二人の間には深淵があります。徹底的な断絶があります。私達は信仰を問題にするときには、このイエスと人間との間にある深淵を素通りすることはできません。そしてこの深淵をペテロの側から架橋することはできないのです。それをするとき、イエスは、人間の通念に引き寄せられた形で受け止められることになるからです。現実生活での渇きを癒す、心の安らぎを与える者としてイエスが捉えられるとき、この断絶は、人間の側から架橋されているのではないでしょうか。自己と自己の生活の根本的な否定を媒介としないで、イエスを受け入れることはできないからです。そしてその否定の在り方は、イエスご自身の生涯が私たちに物語っています。

・この断絶をイエスの方から越えて、私たちに手を差しのべます。ペテロは、復活の主の「あなたはわたしを愛するか」という言葉によって立ち上がりました。両者を隔てる深淵を越えることができました。十字架のイエスによって、その一点にのみ神の真実がこの世に現在したもうことをイエスを見捨てることによって気づいていた弟子たちは、十字架のイエスを通して、己を徹底的に否定する道が与えられたことにもなるのです。「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。何と強い否定の言葉ではないでしょうか。狭い門から入れ、とは、正にこのことです。私達はイエスから始めます。イエスにこそ、死を生命にかえる力が働いているからです。

・では、イエスとペテロの間ににあった深淵とは何でしょうか。「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。この「神のことを思う」と「人のことを思う」とは、どのような違いなのでしょうか。この違いを、桃井和馬さんの『すべての生命にであえてよかった』(写真と文)の中にあります「心のフォルダーを上げる」という桃井和馬さんの文章から考えてみたいと思います。

・「宗教間の争いだけでなく、個々の人の喧嘩、または国家間の戦争にはひとつの法則があります。それは「違い」を見つければ見つけるほど、嫉妬や憎しみが大きくなること、だから争いを大きくしたい者は、そうした人間の意識を利用するのです。

・これを簡単に理解するには、パソコンの「フォルダ」を想像するのがいいでしょう。心の中のフォルダを下げるほど、ライバル意識や憎しみは増幅されるはず。たとえば日本人の場合、関東と関西という違いに注目すれば、どちらも相手に負けたくはありません。次に関東も、東京と埼玉、群馬と栃木と分けていくと、新たな競争意識が生まれます。次には同じ都道府県の中で、みなさんの町と隣町の関係はどうでしょうか? 最後は「隣の芝生は青い」という喩えがあるように、隣に住んでいる人への嫉妬や競争心に行く着くのです」。

・このことは、船越通信43にありますSさんの文章にも記されていることでもあります。人間はみんな自己本位なエゴイストで、隣人も自分の利用できる物質のように考えているということです。それが私というフォルダに固執しているということでしょう。

桃井和馬さんは、続いてこう記しています。「では逆に心のフォルダを上げてみましょう。日本と言うフォルダの上は、韓国や中国を含んだアジアです。私たちは同じ「アジア人」。その上は、アフリカやヨーロッパを含んだ「人間世界」のフォルダです。であれば人間同士が戦うのはなんと愚かしいことか。それだけではなく、ユダヤ人もイスラム教徒もキリスト教徒も、アブラハムを信仰の父と考える親戚同士です。

・人間のフォルダの上を行くと、植物も動物も、地球に生きる同じ「生き物」であることがわかります。地球というフォルダの上は宇宙。宇宙の上は、人によって「神さま」とか「神々」、または「絶対的存在」と呼びますが、共通するのはそこが人間を超えた領域だということ。心のフォルダを上げ、共通項を見つけていくと、共に生きる同類として、尊重し、助け合う気持ちが自然に湧き上がってくるはず。

・憎しみではなく愛を。そのためには、互いが互いを信じるものを認め合った上で、一人ひとりが「心のフォルダ」をおもいっきり上げる。それこそ、私たちすべての人間が求めている関係ではないでしょうか」。

・イエスとペテロの違いは、この桃井和馬さんのフォルダの喩えからすれば、イエスの心のフォルダは最も上の「神のこと」であり、ペテロの心のフォルダは「人のこと」、そしてペテロにとって「人のこと」とは、おそらく「私のこと」ではなかったのではないでしょうか。

・「サタンよ、引き下がれ。・・・・」とは、このイエスとペテロの心の思いと人としての生き方の基本的な食い違いから来ていると言えるでしょう。

・そのようなイエスとペテロが一つとなるには、この断絶を越える何かが起こらなければならなかったのです。イエスの受難と死そして復活は、この断絶に橋渡しする神のみわざなのです。

・私たちの心のフォルダを神とイエスに合わせて生きていきたいと思います。