なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(56)

   マルコ福音書による説教(56)マルコによる福音書13:14-37、
                    
・終わりの切迫。:先程、読んでいただいたマルコによる福音書13章14節以下の「大きな苦難を予告する」記事は、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら~読者は悟れ~…」という言葉ではじまっています。ここに記されています「憎むべき者」というのは、ユダヤ人社会の中心的な神殿を破壊する者のことです。歴史的には、紀元前2世紀中ごろにあった、シリヤの王アンティオコス・エピファネスに関連していました。「彼はユダヤの宗教を根絶させ、ギリシャ思想とギリシャ風とを導入しようと試みた。彼は豚の肉を祭壇に供え、聖域に公娼を置いて神殿を汚した。聖所そのものの前にオリンピアのゼウスの大きな像をすえ、ユダヤ人たちにそれを礼拝するように命じた」。第一マカベア書1:54に、「さて、第145年のキスレウの月の15日に、アンティオコス・エピファネスは祭壇の上に荒らす憎むべきものをおき、また周囲のユダの町々に祭壇を築いた」と。ここの「憎むべき破壊者が立ってはならないところに立つのを見たら」とは、そういう状況が想定されていると思われます。

・このマルコによる福音書の記事では、ロ-マ皇帝が「憎むべき破壊者」と見られているのでしょう。現代史で言えば、植民地支配に苦しんだアフリカやアジアの人々、第二次世界大戦のときの、ヒトッラ-のドイツに併合されたポ-ランドや日本に併合された朝鮮の人々の立場が、このマルコの記事の状況に近いかも知れません。しかし、このマルコによる福音書の記事では、「憎むべき破壊者」による苦難を受けているのは、マルコの教会であり、この福音書の読者であるキリスト者ではないかと思われます。ですから、マルコ福音書の著者にとっては、ここでの苦難は、キリスト者がその信仰を剥奪されるような苦難を意味しているのではないかと思われます。

・もしそうだとすれば、現代史で言えば、戦時下天皇制国家の下にあった日本の教会やキリスト者が、このマルコ福音書の読者の置かれた状況に近いと言えるかもしれません。今年はホーリネス弾圧70年に当たります。「戦中の1942年(昭和17年)6月26日早朝、当時、日本基督教団第6部、9部に属していた全国のホーリネス系の教会の牧師が治安維持法違反容疑で一斉検挙され、教会は解散させられました。同派が強調する再臨信仰が、天皇が世界を治める現人神であるとした当時の国体に反するとみられた」(クリスチャン新聞2012年7月15日号)からです。当時の日本基督教団はホーリネス教会の牧師を除名にし、ホーリネス教会の牧師の弾圧が他に波及することを防ぎました。このことに1980年代後半になって、日本基督教団」は謝罪しています。

・「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。その日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである」(14-20節)。

・このマルコ福音書の記者の言い回しからしますと、教会やキリスト者にとっての破局的な苦難は、3・11の大地震と大津波による自然災害のように描かれています。
 「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけなさい。一切の事を前もって言っておく」(21-23節)。

破局的な苦難は自然災害のように描かれていますが、教会やキリスト者を惑わそうとする偽メシアや偽預言者の出現への警告からしますと、終末の到来(この世は終わる)をかざして、人々を惑わす人物の出現が、この記事では考えられているのでしょう。そしてそれは、24節から27節によれば、世の終わりである終末の到来を意味しているのであります。

・「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。/そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」(24-27節)。

・世の終わりである終末の到来は、教会とキリスト者にとっては、再臨のキリストの到来によって世界中に散らされている神に選ばれた者が一つに集められる時でもあります。それは喜びの時、希望の時でもあります。

・「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏が近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こらないまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(28-31節)。

・だから、イエスを信じる人たちは「目を覚ましていなさい」と勧められているのです。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰ってくるのか、夕方か、夜中か、鶏が鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からない。主人が突然帰って来て、あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(32-37節)。

・このように今日のマルコによる福音書では、終末の現象がいろいろ記されて、そして、間近かな人の子の到来(キリストの再臨)が語られて、「目を覚ましていなさい」と勧められているのであります。このような状況は、今日の私たちには縁遠いという人がいるかも知れません。最近高橋という逃亡していたオームの最後の信者が逮捕されましたが、1995年の地下鉄サシン事件におけるオ-ム真理教の「ハルマゲドン」は、おそらく自分たちによって終末を引きよせようとして起こった事件ではないかと思われます。現在という時代の閉塞を表しています。決してこのマルコの記事が全く無関係とは言えないでしょう。

・目を覚ましていなさい。神を信じることは、現象の異常さに揺れ動かされないで、真実を見極め、神の前に生きることです。人の子の到来(マルコの場合、再来のイエス)を信じ「目をさましていなさい」と。「目をさましている」といことは、しっかりとその場に立つということです。ゲッセマネの祈りの記事の中で、イエスは三人の弟子たちの「眠らないで目をさましていなさい」と言って、一人で祈られました。しかし、弟子たちのところにくると彼らは眠っていました。「眠る」ということは、その場にいながら、いないに等しいわけです。弟子たちは、イエスに代わることはできません。けれども、祈っているイエスの側にいて目をさまして、血の汗をしたたらせながら祈るイエスを直視することによって、彼らはイエスと同じにはなり得ませんが、イエスと共にいることができるわけです。眠ってしまったのでは、参与がありません。

・もちろん、このマルコでいわれている、「目を覚ましていなさい」というのは、ただ現実をながめているということではありません。「目を覚ましてなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく生きなさい」(第一コリント)ということです。

・「この油断のなさへの勧告は、人間はイエスが実践した神への献身を忘れてしまい、無価値なものに頓着するという危険に常にさらされているということを前提にしている。その際、差し迫る危険に視野が限定されることもあれば、無頓着がもたらす結果、即ち人の子に認められないことまで視野が向けられる場合がある。したがって、『目を覚ましていなさい』は信仰における油断なき(注意深さ)忠実さをその内容とするので」す。

・「目を覚まして、人の子の到来を待ち望み」つつ、なすべきことを黙々となしていくということではないでしょうか。「目をさましている」ということは、一面で現実を直視するということでもあります。どんなに不条理と思える現実であっても、それを直視し、なすべきことをなして生きていくことです。なすべきこととは、極めて単純なことです。神を待ち望みつつ、神なしに人として他者と共に生きてゆくことです。それは、私たちにとってイエスをみならって一日一生という、その都度、その都度与えられた命を大切にして、他者と共に私たちすべての人の命の創造者であり、保持者であり、救済者である方を信じて、互いに愛し合って生きるということではないでしょうか。