なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(21)

マルコ福音書による説教(21)
マルコによる福音書6:6b-13 
                     
  6章1節から6節前半までには、故郷ナザレにおいて、郷里の人々がイエスに躓いたことが述べられていました。そこでは、故郷の人々を通してイエスを全く寄せ付けようとはしない、人間の中に根強くある不信仰が露呈されていました。「信じます。不信仰なわたしを、お助け下さい」(Mk.9:24) という叫びを、私達の中におこさせるものは何でありましょうか。信仰は、私達が生来備わっている宗教心とは違います。或は漠然とした神観念とも違います。福音という出来事が生起するところに、はじめて人間の中に呼び起こされる応答が信仰であります。しかし、それは自明の事柄ではありません。不信仰によって、福音を拒絶することも人間にはなしうるし、故郷の人々はそういう人間の可能性を暗示しているのでありましょう。
  そのようなナザレでの出来事を語る物語の後に、十二弟子の派遣の物語が続いているのでありますが、つまり、イエスを拒絶した人間の物語の後に、イエスが弟子達を町や村へ遣わして、神の国の福音を宣べ伝えさせ、悪霊を追放し、病人を癒させたというのであります。マルコによる福音書の著者は、この文脈の中で何を私達に語ろうとしているのでしょうか。
  エスを拒絶する人間がいます。それは、ある人間が拒絶し、ある人間が受容するという単純なことではないでしょう。人間の側には、全ての者の中に、故郷の人々の不信仰があるのです。そういう私達の中に内在する不信仰をイエスは、〈驚き怪し〉まれます。しかし、そこでイエスの活動は跡絶えてしまうわけではありません。私には、今日のテキストである十二弟子の派遣は、本質的には故郷の人々と全く変わらない人間の中へ、イエスが弟子達を派遣しているように思われます。信心深い人々を探し出して、そのような人間にイエスの宣教が向けられているのではありません。ちょうど旧約聖書において神ヤハエが強情でかたくななイスラエルの民に、モ-セを通し、士師達を通し、預言者達を通して執拗に関わり給うように、己に固執してかたくなに心を閉ざす私達に、福音は語られ続けられるのだということを、この文脈において、マルコは私達に語っているのではないでしょうか。
  さて、この弟子派遣の物語において、まず第一に私達が聞き取らなければならないことは、イエスが宣べ伝えた神の国の福音が全ての者のためであるということです。神の国の福音が全ての人に向けられた神の業であるがゆえに、その福音自体が全ての人に正しく受け入れられることを求めているのであります。福音書を見ますと、イエスは弟子達を従えて活動を展開しておりますが、弟子達が何か閉鎖的な教団を作るということは全く考えていませんでした。マルコ3章13節以下にある弟子選定の物語の中では、イエスが十二人をお立てになったのは、「彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった」(3:1415)と言われています。弟子たちはイエスと共に居て、イエスの業を行う者なのであります。イエスが行くところとイエスの働きが遂行されていくところで、弟子の召集と派遣が付随的に生じてくるのであります。
  こういう風に言い表すことができるのではないでしょうか。つまり、イエスとイエスのみ業(福音)は、それ自身で自己運動を展開していきます。その運動に巻き込まれながら従って行く者として、弟子達が存在します。そしてイエス・キリストの福音は全ての人々を包含するものとして、私達の前にあるのです。私達はそれを受け入れるか、拒絶するかのどちらかであります。しかし、私達がどのような態度を取るにしても、イエス・キリストの福音は全ての人を包括するものとしてあるという事実は、人間の側の態度によって左右されることはないのです。
  エスの福音と私達との関係を正常な形において見た場合、ちょうど無償の愛を持つ母親と幼子との関係に譬えられるように思われます。母親の大きな愛につつまれている幼子が母親の愛を感じる感じ方は、幼子が皮膚で、また雰囲気で、親愛な母親の態度を感じとる以前に、既に一方的な母親の確かな愛が注がれているからです。幼子が感じようが感じまいが、厳然として母親の愛が幼子を包み込んでいます。その確かな愛が幼子の心を開かせて、人格的な芽生えを産み出すのでしょう。愛を受容することによって、全てを委ね、人間的な成長がはじまります。人間はそのような関係によって成長するものです。ちょうどそれと同じように、私達が、幼子のように(幼子は素直ですから)、イエス・キリストにおいて私達全てをその極みまで愛し給う、先行する神の愛を受け入れる時、その福音によって神の他何ものも恐れない者として、神と隣人の前に立つ人間に形成されてゆくのです。
  このようなイエス・キリストの福音から私達自身を見るという姿勢を持つことが、悔い改め(方向転換)であります。キリスト者とは、このような悔い改めに生きる者であります。己れではなくキリストを中心とする、中心の転回を経験している者として、イエス・キリストを己の主と信じる者がキリスト者です。そしてそこに出来る集められた群れが教会です。母親の確かな愛を受け入れる幼子のように、全てのもののために主としてあのような地上の生涯をおくり、あのような十字架での死を経験し、そしてあのように死に打ち勝ち、復活されたイエス・キリストにおいて神の国が到来していることを信じ、その方を中心に生きる者がキリスト者であります。
  次に、宣教に遣わされる弟子達に対して与えられた二つの注意は、何を私達に語っているのでしょうか。一つは8・9節に記されています。「…また旅のために、つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯びの中に銭も持たず、ただわらじをはくだけで、下着も二枚は着ないように命じられた」とあります。
  これは単なる所有を否定している禁欲的な命令ではありません。弟子たちは、自分の必要なものを安心して用いてよいのであって、禁欲自体を一つの積極的な業だと言われているわけではありません。これは、弟子達が自分達が宣べ伝える対象としての福音自体に寄り頼むよりも、自分自身の物質的、精神的装備に頼っているとすれば、そのような福音を運ぶ使者は信用がおけないということが言われている、とE.シュバイツア-という人は解釈しています。ここには、福音は福音自体、その力を発揮するということが示されていると考えられます。それ故に、イエスは御自身そうであったように、弟子達がイエスの権威を付与されて宣教に遣わされるときに、全く貧しい人間として、ただイエスの権威によってのみ生きる者とされたのでしょう。福音の宣教はそのような形で、はじめて正しくなされ得るのであります。
  エスは、ただ神の支配の下に生きる力強さをご自身とそのみ業をもって啓示されたわけですが、それは、全くこの世の力によらなかったのです。それ故、「何も持たないように」という、イエスの命令は、所有を否定することに焦点があるのではなく、弟子達が本来頼りにすべきもの以外の何かこの世的力に頼っていくことへの警告であります。歴史的教会は必ずしもこのいましめを守って来たとは言えません。政治と結び付いて教権を拡大したということ、植民地支配の尖兵になったこと、万博伝道など。
  もう一つの注意は、10、11節、特に11節に記されています。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家とどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落しなさい」。
  ここでは、弟子達がイエスに託された福音を、町や村に行って人々に宣べ伝える場合、福音の安売りが禁じられているのであります。人間の願望にあわせて、福音を人間化して、より人間に受けいれ易くすることは、弟子達が考えるべきことではないのです。弟子たちは、イエスから託された権威によって語り、行動することだけがもとめられているのであります。弟子達を弟子たらしめるのはイエスへの服従のみです。
  私達はこのいましめを、よく聞かなければなりません。教会の弱体化があるとすれば、人数が多いとか、財産とか、この世的な力を持っていないからではありません。水増ししないで、ただ福音のみに立つことです。私達にとって、福音は神がイエス・キリストにおいて私達全てを極みまで愛し給うとう先行する神の愛のことです。悪霊追放や病気治癒というイエスの奇跡行為は、イエスにおいて私達を覆っている厚い雲を突き破って、光を注ぎ給う神の行為です。神に反逆して、自分で自分の生を立てようとする私達は、神ならぬ他の神々に隷属する以外にないのです。イスラエルが神ヤハエにそむいた時、どうなったかを思い起こすべきです。バ-ルに仕えることになりました。イエスの弟子達が、イエスに逆らった時、彼らは虚無とロ-マに対する恐れに支配されてしまいました。今日の非宗教的な時代にあっても、私達が本来つながるべき根として、そこから生命を受けるべき神との関係を正常な形で結んでいない限り、世俗的な様々な権力に、その代表としてのマモンに支配されざるを得ないのであります。
  私達の時代は、人間の問題として見るとき、イエスの時代と何一つ変わりません。悪霊や病気を恐れた人々と、核の脅威や経済の問題でいつも悩んでいる人間と、基本的には何一つ変わりません。この地上の生の中で、悩み、苦しみ、もがき、刹那的な快楽によって気をまぎらわせながら、生きているのであります。イエスの時代とどこも違い在りません。イエスの時代にあった宗教や政治的運動も、ほぼ同様の形で、今の時代にもあります。
 ユダヤ教    体制内宗教
 エッセネ派      改革
 ゼロ-タイ    政治運動(体制変革運動)
  神への信仰も、終末論的緊張を失って、世界内在化してしまっていました。礼拝や祭儀は日常化され、何の出来事も起こらなくなっていました。悔い改めは起こらず、ただ精神の浄化作用を果たすだけに過ぎません。神を神として崇めなくなって行くとき、必ず起きる結果が、イエスが現れたときのユダヤであり、それは今日の我々の時代でもあると言えましょう。神を神として崇めなくなったとき、この世はこの世の手段に訴えるか、この世の矛盾から悩みを人間的に歪めた神の平安を語る宗教が巾をきかせ、人々はそれに飛びつくか、どちらかである。
  幼子らしさを失っていった人間の自己中心性がもたらす結果です。そのような中で、私達は全く単純に福音への信頼によって生きるように召されているのです。今日の教会の弱体化があるとすれば、私達の中に何か力が足りないからではない。本来あるべきところに立たないで、別にこの世的な力に頼ろうとしているからであることを、この物語は私達に語りかけているのです。