なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(38、復刻版)

 昨日船越に来る前に国会前の辺野古基地建設反対座り込みに参加してきました。新聞によれば、日米合意によって辺野古のアセスメントを沖縄県に速やかに出すことで、日米政府が合意したとありました。国会前の座り込みの中心メンバーは女性たちです。しかも80歳を越えた方を含めて数名の方々です。私などが参加すると、私もこの12月で70歳になりますが、まだ若い方に見られます。辺野古に新しい基地建設をさせてはなりませんし、現実的に考えても、これから新しい基地建設をするなどということは、歴史の逆行そのものではないかと思います。大量生産・大量消費という経済構造が世界規模で見れば限界に達している現代の状況で、今私達がなすべきことは、世界のすべての人びとが平和に分かち合って生きて行く道を模索することではないでしょうか。そのためには近代社会のパラダイムを根本的に転換する必要があります。それ以外に、戦争のない平和な世界の到来は困難だと思うのですが、現代の日本の政治を見ていても、それがなかなか難しいのです。時々国会前に座り込みながら、その時はいろいろと頭の中で思いめぐらしています。
 さて、今日は「黙想と祈りの夕べ通信」(38、復刻版)を掲載します。なお、「私の裁判の準備状況とお願い」(1)(10月26日掲載)は、修正しましたので、悪しからずご了承ください。
  
 
 黙想と祈りの夕べ
   (通信 38 2000 618発行)
 
 去る11日の日曜日には、礼拝の後にエイジ・グル-プの集まりがそれぞれもたれました。私は、信和会(男子65歳以上の会)に出席の要請がありましたが、伝道師のYさんが去った後の青年会にしばらく関わりたいと思い、役員の方にもお話して信和会の方は失礼させてもらいました。その信和会では、メンバ-の中から教会員の高齢化による将来の紅葉坂教会への不安が披瀝され、青年伝道のためには若い伝道師の招聘が望まれるという意見があったとお聞きしました。その日の青年会は6名の出席で、私と自己申告の青年を除くと、青年は4名でした。その中の一人の青年は、しばらく体調を崩していて私も心配していましたが、この日の青年会では彼女の明るい笑い顔を時々みることができました。彼女が少しずつ元気を取り戻していることを確信してうれしく思いました。「黙想と祈りの夕べ」では、少し元気になった彼女のことをお話し、私は一人の魂のために共に祈る教会でありたいと述べました。そのことと、青年伝道、そして紅葉坂教会の信仰の継承ということと、どのように関わるのでしょうか。私は、基本的に教会の将来は、イエス・キリストの福音そのものの命にかかっていると考えています。私たちの教会がイエス・キリストの福音の命を汲み取り、その命に生きることでしょう。
 前回の「黙想と祈りの夕べ」の「分かち合い」では、上記のような私のお話に続いて、一人の姉妹が、一ヵ月ぶりに礼拝に出席し、みことばを聞き、讃美することができ、やすらぎを強く感じたとおっしゃいました。そして自分が関わっている精神障がい者グル-プホ-ムでの経験をお話しされました。ホ-ムに入所している一人の方が、3ヵ月近くも病院からの薬もとらず、部屋に引きこもっていたそうです。自分は専門職ではないので、そのような方へのケア-に限界を感じ、入院もやもう得ないのではと思い、他の方もそのように思ったというのです。けれども、一人の責任ある方は、薬ではなく、人と人との関わりの中で部屋に引きこもっていた方が外にも出られるようにと、訪問看護の方にも来ていただき努力されたが、本人はほっといてくれと言われたそうです。結局処置入院ということになり、強制的に入院させられることになり、心配していたが、穏やかに入院することができて、ホットしたというのです。その方が入院した病院からは、なぜここまで放っておいたのかと叱られたそうです。また、その後開かれたそのグル-プホ-ムを含む会の総会では、なぜ入院させたのかという問いかけがあり、心病む方を支えることの難しさを、つくづくと感じさせられたと言われました。「いつくしみ深い」の讃美歌(21-493)のように「悩み苦しみを、かくさず述べて」という状況は、よっぽどの信頼がなければ難しいのではと。
 以前に名古屋から横浜に来る時に、御器所教会のメンバ-で心病む息子さんのいらっしゃる方が、横浜は精神障がい者のグル-プホ-ムについては進んでいますよ、と言われたことがありました。実際はどうなのか、私にはよく分かりませんでしたが、横浜に来てみて、紅葉坂教会のメンバ-の中にも精神障がい者のグル-プホ-ムに関わる方がいることを知りました。けれども、ホ-ムがあるから進んでいるとも限りません。上記の姉妹のお話からも、その難しさが伝わってきます。心病む者の苦しみは、想像を絶するものがあるに違いありません。その個々人の苦しみがどのように受けとめられるのか。まずは無心に耳を傾ける者でありたいと思います。