なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(37、復刻版)

 「私の裁判準備状況とお願い」(1)は10月26日のブログにありますので、そちらをご覧下さい。
 
 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信」(37、復刻版)を掲載します。
 
  黙想と祈りの夕べ
   (通信 37 2000・ 6・11発行)
 
 前回の「黙想と祈りの夕べ」の「分かち合い」では、一人の姉妹から自分の関わっているボランティアグル-プのメンバ-の方のことが話されました。姉妹の関わっているボランティアグル-プは障がいをもった子どもさんのお母さんを支える働きをしています。そのメンバ-の中には、看護婦さんや保母さんのような専門職の人が多いようです。ボランティアを必要とする家には、重度の障がいをもった子どもさんもいますので、看護婦の経験者がボランティアとして求められるからです。そのような方々と、姉妹はグル-プの総会や例会の後にお話することがあるそうです。そのお話の中で姉妹はそのような方々から沢山の恵まれたものをいただくと言います。けれども、お話していてどこか違うと感じるところもあるそうです。ボランティアをしている方々は、みんな自分の働きについて大変努力しておられ、頭が下がります。その中の一人の看護婦さんが自分の関わりを発表してくださいましたが、それはやさしく丁寧に子どもさんを見ていることが伝わる発表でした。すばらしい感性の人だと思いました。その方の夫も医者で、例会にも一緒に出てきます。その看護婦さんは本当にやさしいものを持ったすばらしい人に思えるのですが、本人は寂しいとおっしゃっているそうです。男に女が従うという価値観が夫婦関係の中にあって、彼女にはそれが重く感じられ、寂しいようです。昨日もボランティアの会の総会があって会ったとき、彼女はそう言いました。
 教会の結婚式でも語られますが、私たちは夫婦の愛もお互いの努力ではないものがあると思っています。ありのままの他者、ありのままの自分を受け容れられるのは、絶対者である神に受け容れられているからだと思います。人間の努力を超えたものによって私たちが支えられていること、聖書で言われる神の愛を自分は彼女にも伝えられたらと思っています。傲慢にも、そういうものが教会でなければないというわけではありませんが。彼女が寂しくない日が来るように祈っていきたいと思いますと、姉妹は言われました。
 また一人の姉妹から、自分が関わっている薬膳の方の地区の集まりがあり、そのグル-プでお年寄りの方々をお招きして楽しい一時を過ごすことになったこと。その第一回の集いが近々開かれることになり、その集いは年3回位開く予定だが、自分もボランティアとして参加できたら素晴らしいと、楽しみにしているというお話がありました。
 この日役員会があり、伝道師問題と教会財政問題との関連で、教会の将来像についても少し話題になりました。私は以前から、精神的にも経済的にも自立した信徒を中心とした集団という形態を色濃く持つ私たちの教会の今までの姿が、このまま続いて行くとは思えなくなっています。「共に生きる」共同体としての教会の復権が、今日的な状況を踏まえて求められているように思われます。それがどういう形を取るのか。①問題別、関心別のボランタリ-な小さな集まり(例えば寿に関わる人たちの集まりとか視覚障がい者のテ-プ朗読のもみじの会のようなグル-プ)が、教会の細胞のような「基礎共同体」となって行くのか。②各地に散在する信徒が生活の場で小さな集まりを作り、そこで弱さが共に担われるコミュニティーのような共同性をつくって行くのか。あるいは、③教会の枠を越えて信徒各自が自分の生活の場でいろいろな市民グル-プに加わり、そこで活動することになるのか。現在は①③に関わる信徒がいらっしゃると思います。そういう信徒の生活の場での生き方を教会が支えられる宣教活動が求められているように思われます。福音への信頼をもって、可能性を追究して行きたいと願っています。