なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(29)

 教団の石橋議長は、今でも私の戒規免職を「悔い改め」と強弁しているようです。10月末までに、戒規免職の撤回の意志があるかどうか、私は教団に問うていますが、「北村さんはまだ悔い改めないのですか」と石橋議長は言ってくるのかも知れません。後10月末までは1日です。
 
 
船越通信№29   2011年10月30日     
 
   1023日の日曜日は、礼拝後礼拝出席者(9名)でお茶を飲んでから、私は牧師館で面談していましたが、5名の方々は教会の台所と外回りのお掃除をしてくださいました。お茶の時お菓子と少しの湯で野菜(教会の庭にオクラを植えてくださった方があり、オクラの収穫がある。その他ホウレンソウのような野菜)とお茶しかいただいていないのに、午後2時過ぎまで働いてくださいました。お陰で教会の台所の整理整頓ができ、見違えるようになりました。その後、私は紅葉坂教会から船越教会に引っ越す時、移動を間違えた羽毛の掛け布団2枚を小さく畳み、キャリーバックのようなもの(バックがない)にくくりつけて鶴巻に運んで行きました。先週鶴巻に泊る人があったからです。この日は午後6時から早稲田で「北村教師への免職処分に抗議し撤回を求める有志の会」がありましたので、布団を鶴巻に置いてすぐに早稲田に向かいました。有志の会では、私の裁判の準備状況を説明し、支援の在り方について話し合いました。この会で思わぬ情報が入りました。その内容をまだ申し上げるわけにはいきまあせんが、もしこの情報が正しいとすれば、私の戒規免職は何だったのだろうかと思ってしまうようなものです。会が終って鶴巻に午後1030分ごろ着きましたが、この日はさすがにガックリして、昼も上記のお茶をいただいただけで、時間がなくてずっと何も食べていませんでしたので、ビールを飲んで連れ合いが用意してくれていた秦野特産の生の繭玉ピーナツゆではじめいろいろな野菜をいただいて、服を着たままで布団にもぐりこんで寝てしまいました。
    私の裁判は実際にはそう簡単なものではないと思います。こちらの主張を裁判所がどこまで認めてくれるのかということにおいても厳しいとは思いますが、今の教団では私の戒規免職処分の不当性を問う機会も場も全くありませんので、司法の場を通して問題にして行かざるを得ません。この点をご理解いただいて、ご支援をよろしくお願いいたします。ある方が、私の裁判と共に、洗礼を受けていない人にも聖餐を開いている人が、今の教団相手に精神的圧迫を受けていることを理由にして、本人による100円の損害賠償請求をいろいろな所で起こせば、教団は対応に苦慮してダメージを受けるだろということを言われていました。今の教団を相手にそこまでする人はいないでしょうが、面白い考え方です。
   1025日(火)はシャワーの会(横須賀の路上生活者のパトロール)があり、私も参加しました。SさんとKさんと一緒でしたが、お二人のお話では、路上生活者のように思える人が公園にも街にも最近少し多くなっているようです。これだけ雇用の差別化(正規雇用と非正規雇用)が進み、働いていても収入の少ない人が多くなりますと、湯浅誠さんが言う「タメ」(貯金があり肉親や友人を頼れること)のある人であっても、そう長くは世話になれませんので、路上生活を余儀なくされていかざるを得なくなるのではないでしょうか。アメリカでも失業者が多く、若者が仕事をよこせとデモンストレーションをするようになっていると言われます。日本もそういう状況になっているでしょう。今後この状況が続けば、仕事に着けなかったり、仕事を失った人々が抗議の意志を表すさまざまな行動が起きてくるのではないでしょうか。平和に結びつく新しい仕事の創出と格差のない社会をどう形成していくのか、昔の夢を追うのではなく、未来に結びつく創造的な行動が求められていると言えるでしょう。
   1023日の礼拝説教では、マルコによる福音書6章6b~13節の弟子の派遣の物語からメッセージを取り次ぎました。この弟子派遣物語は、弟子の召命物語と共に、福音書の弟子たちとは現代の教職というよりもキリスト者と考えるべきではないか。召命と派遣は、私たちが日曜日ごとに礼拝することが弟子の召命にあたり、普段の日常の生活の場に私たちは生活していることが派遣に当たるのではないかと思われます。日曜日の礼拝では、弟子たちが召命を受けて、今までの生活から方向転換(メタノイア・悔い改め)してイエスに従う者とされたように、私たちも礼拝を通してメタノイアするのではないでしょうか。メタノイアは「悔い改める」(新共同訳)とか、「回心する」(岩波訳)と訳されていますが、本田哲郎さんは「低みに立って見直す」と訳しています。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した」(12節)は、「みんが低みに立って見直おすように福音を告げ知らせた」(本田哲郎)と言います。宣教は回心を求める「伝道」というよりも、小さくされている人々と共に彼ら・彼女らを解放する神の働きに参与することなのです。宣教に遣わされる弟子たちには、二つの注意が与えられています。一つは、必要以上何も持たないようにという、自分自身の物質的・精神的装備に頼らす福音自体に寄り頼むこと。もう一つは、福音の安売りの禁止です。相手に取り入ることではなく、イエスの福音を水増しせず、そのままに宣べ伝えること。それで決別するなら、違いを明らかにして分かれて来なさいと。福音が宣教されるときに、そこに悪霊追放や病者の癒しという解放の出来事が伴ってくることが語られています。礼拝と日常の生活とが私たちにも福音宣教による解放の時となりますように。