なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(40)

「父北村雨垂とその作品」(40)
 
 父の作品ノートには、前回(「父北村雨垂とその作品」(39))の句の後に、「“ペンギン”昭和二十四年九月川柳(川柳研究)に発表」とあり、“ペンギン”の句があります。これは既に「父北村雨垂とその作品」(2)(20111031623)としてこのブログに掲載してありますので割愛して次にいきます。
 下記“妻”の句を読んで、この句が全くの想像ではなく、何ほどかの写実があるとすれば、この句での妻はわたしの母になります。「妻は子のおちんちんを指で弾いて笑ふなり」には、男の子が想定されていますが、実は私たち兄弟姉妹は6人で、姉2人は母が違いますので、ここでの「男の子」は私か兄かどちらかです。とすれば、この句の妻は私の母になりますが、この父の“妻”の句から感じるような夫婦の情感は、私の知る限り、父と母の間には考えられません。そのような二人の交感を、小さい時から二人を見ていて私には感じられなかったからです。父は夜遅く帰ってきましたし、母や子供である私たちと寝る場所も違いましたから、二人が仲良く話している光景もほとんど見たことがありませんでした。むしろお互いに近づくことを避けているように思えました。私は、ある時期からそれは高学歴の母に対する尋常小学校出の父にあるコンプレックスではないかと思っていました。今回下記“妻”の句を読んで、何となくホットしたような思いを持つ事ができました。
 
おんなの肩に枯葉のやうに私の手
無限の底は黒しと瞼伸びぬ
寂びた冬のじりじり(ちの”)ちじむこの体躯
貨物列車がたごと霜さらさらと崩れおつ
結晶の分裂が瞳におどる深夜 ( よる )なり
 
“妻”
 
妻のすいみん時間を妻は語らずほほえむ
妻の瞳はこよいひときわ輝き妻は健康
妻への土産を買った覚えなし二十年
妻の生態吾れよくぞ男に生れ来し
妻の怒りを聴く何か不思議に快ちよし
日日に子を叱る妻なるも子は妻の味方
日日を子とのみ暮す妻何が楽しいか
妻は子のおちんちんを指で弾いて笑ふなり
妻の寝顔が不平ありとは思はれず
妻の想い出は亡き父よりも亡き母に
夕暮に子を呼ぶ妻の聲透る
妻の横櫛よ或る女達は煙草喫う
 
番犬と知性が叫び黙るほかなし
 
“婦人闘志”
 
爭議解決婦人闘志は花を購う
雑魚寝して婦人闘志家を忘れたか
わめく婦人闘志の口唇にけいれんする
婦人闘志たすきして本部に夕迫る
 
晴衣の胸にこの心臓は昨日のものだ
風船は天に人は死に人生る
だんまりの綱いつ終る綱渡り