今日は、「父北村雨垂そその作品(123)」を掲載します。
父北村雨垂とその作品(123)
原稿日記「一葉」から(その6)
作品「私」100句はサブタイトルに「分裂の抽象的世界像」としてある様に私という力の存在の分裂に私の眞の在り方を観ようとしたもので全くの形而上詩であり、それをブロック風に仕上げた私のひとつの試みである。かつて川柳研究誌上にも難解性の問題のところでも私事ながら一寸觸れておいたが、斯うした方が讀者の鑑賞によりよい方法と考へてのことであったが、却て難解度を髙めた結果となった。それにしても約一ヵ年に及ぶ力の浪費に関わらず私の愛着は今日に至ても少しも薄らぐことはないし、「鷹」33号に発表の労をとって呉れた哲郎君への感謝の念は現在も在る。
(上記「分裂100句」は、当ブログ「父北村雨垂とその作品(18)に掲載しています。)
NOESISはNOEMAはフッサールの発想で超越論的な純粋意識として現象学者である彼の哲学を展開した。元 プラトンは理性的認識とていたらしい。西田幾多郎博士はノエマを静的客観面、ノエシスを動的に主観面をと考へたいる。ヤスパースは主観、客観を意識の分裂として、それの作用と考へられるとして包越者を想定して彼の実存哲学を提唱している。而し存在は何等かの意味で、依然として謎が残る様である。
1979年(昭和54年)1月11日、雨垂考
人間は屡々 身体を存在と誤認する 雨垂考
矛盾は論理的であるが分裂は実在的である
~ へールからマルクスへ~
日本のコトバは漢字によって多彩な傳達の機能を発揮することになった ~ 但現時点に於てのことであるが ~ 日本の詩人は日本人であったことに感謝すべきであらう。だが詩の主体は、音声言語であって文字言語ではなかった。進歩と矛盾は双生児であるか。
コトバは神であると言う。さうであるならば力も神に相違ない。 雨垂
作品「ペンギン」と「あしかび」は共に人間を弁証法的に詠ったものである。横浜在住の或る詩人からコク評を受けたものであるが、私には現在(いま)も愛着がある。故に私はその詩人を信用しないことにしてゐる。
(「ペンギン」「あしかび」の句は、当ブログ「父北村雨垂とその作品(67)」に掲載しています。)
マルクスとレーニンは共によき「牧場の指導者であったが、羊の中から闘牛が混入していたことに気付かなかったらしい。
作品「富士二十句」はその原稿を三太郎先生に提出した際の先生のことば「やっぱり大観や竜三郎の画には及ばないね」。同席の懐窓、一鶏の二大先輩もニヤニヤしながら肯定した。懐窓兄はこれに広重を加へた。全くさいんざんである。その後一鶏画伯は私に画伯の制作による富士をしばしば見せて呉れた。私への無言の教訓であった。私が特に描いていただいた富士は次女C子の家の応接間にある。
なつかしい思い出である。
(「富士二十句」は、当ブログ「父北村雨垂とその作品(65)」に掲載しています。)