なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(60)

  
     マルコ福音書による説教(60) マルコによる福音書14:32-42、
                

・今日は、ゲッセマネの祈りにおきますイエスの悲しみについて思い巡らしてみたいと思います。

・イエスはいよいよ十字架の苦難と死が迫ったとき、ゲッセマネの園で真剣に祈ったと言われています。その時、マルコによる福音書の著者は、33、34節で、「…イエスはひどく恐れてもだえ始め、…『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい』」と弟子達に語った、と記るしています。この言葉からも、イエスの悲しみの深さが伝わってきます。マタイによる福音書でも、ほとんど同じように記されています。しかし、ルカによる福音書では、この部分はなく、その代わりに、祈るイエスについて、「すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(22:43、44)と説明しています。「汗が血の滴りのように地面に落ちた」という表現は、実に具体的です。熱心に祈るイエスの額や顔から、「血の滴りのように」「汗が地面に落ちた」というのであります。ルカでは、イエスの祈りの激しさが、よく表現されていると思います。

・ふりかえって私自身は、このイエスの祈りの何分の一でも真剣に祈ったことがあるだろうか、と思わされてしまいます。

・イエスは、何故「わたしは死ぬばかりに悲しい」と弟子達に語り、「汗が血の滴りのように地面に落ちた」と言われるほどに、激しく熱心に祈られたのでしょうか。マルコによる福音書14章41節に、「人の子は罪人たちの手に引き渡される」と語られていますが、この言葉は、イエスが「罪人たちの手に引き渡されて」十字架につけられて殺されることを意味します。この十字架への道を避けることができないのか。イエスは、ゲッセマネの祈りによって、そのことを神に向かって祈り、問うているのです。ここには、「人の子」として本来悲しむ必要のない者が、私たち人間の生活のただ中に入ってきて、そこで苦しみ悩むイエスの姿が示されています。偽りの世界の中で神の真実を、利己的な人間の中で他者を大切にする神の愛をつらぬく者が、その闘いにおいて背負わねばならない悲しみであります。受肉したひとりの人間として、利己的な人間の罪を背負い、真っ正面からその人間の罪と格闘しているイエスの姿を、ここから読み取ることができるように思います。

・そのようなイエスが、36節で、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と、祈ったというのです。

・「アッバ、父よ」とうい神へのイエスの呼び掛けは、当時のユダヤ教では殆ど例のない神への呼び掛けであったと言われています。幼い子どもが身近に父や母を感じて、うれしい時や悲しいときに、ごく自然に、また素直に、「お父ちゃん」と言ったり、「お母ちゃん」と言ったりするのと同じです。「天にいて、全能の聖なる神さま」という通常のユダヤ教徒の神への呼び掛けとは、根本的に違います。当時の一般的なユダヤ教徒の神への呼び掛けには、呼び掛ける者と神との間には越えることの出来ない距離を感じさせられます。神は高く、遠くにおられます。私たちの生活しているこの世の只中にではありません。けれども、イエスの「アッバ」と言って呼び掛けられる神は、「死ぬほど悲しむイエス」と共にある方なのであります。「インマヌエル」、「神われらと共にいましたもう」、そのお方です。

・イエスは、「あなたは何でもおできになります」と祈ったと言うのです。この言葉によって、イエスは、神の全能を認めています。その神の全能とはどのような神の力でしょうか。ボルンカムという人は、神の全能について、こう言っています。「神が全能であるという思想は、人間が普通考えて、そこまで飛躍すべき高い神の望楼(遠くを見渡すことのできる物見やぐら)のようなものではない。むしろ、人間は必要の(ありのままの自分の)限界内にひき止められている。あるいは、祈りにおいて幻や自分の義の幻影を自分で作り出す必要のない自由が、人間には付与されていると言った方がよかろう。…祈る者は、聖なる領域にいるのではなく、ありのままの現実界、自分が存在しているこの世界の世俗性のなかにいるのである」と。ボルンカムは、祈りにおいて、祈る者は、神の全能の内にあるというのです。そしてその神の全能は、今自分が置かれているこの世のその場所に、たとえそこがどんなに厳しく、つらいところであっても、その自分の直面している現実とは違う夢や幻を描いてそこから逃げ出そうとするのではなく、そういう夢や幻を描く必要のない自由、ありのままの現実とありのままの自分が向かい合うことができる力だというのです。

・こうあって欲しいという私たちの持つ幻想や、自分がこんな目に合うのはおかしいと思うことによって、自分が直面している現実の方があってはならないのだ、自分の方が正しいとするのだと主張することからも解き放たれて、自分が直面している現実が強いるさまざまな問題を引き受けて立つ者とされるのです。それが全能なる神への祈りから生ずる賜物なのだというのです。このゲッセマネの祈りにおけるイエスの場合にもそのようなことが、このイエスの祈りにおいて起こっているのではないでしょうか。

・祈りにおいて、神は高みに、私たちが上っていく高みにいるのではなく、悲しむ者と共に、その低みにおられることが示されるのです。死ぬほど悲しむ人間イエスと共に、そこに神はいたもうのです。

・続く、「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適ったことが行われますように」とのイエスの祈りは、苦悩の中でご自身が引き受けなければならない杯の余りの重さの故に、取り除いて欲しいと祈りつつ、自己を神へ明け渡してゆく姿が生き生きと示めされていると思います。「わたしの願うことではなく、御心に適ったことが行われますように」と。

・イエスは三度同じように祈られたと言います。そしてその都度、イエスと一緒にいたペテロ、ヤコブヨハネの三人の弟子たちに、「目を覚ましているように」言いましたが、三度とも弟子たちは眠ってしまったというのです。41節以下のところを見ますと、3度目になりますが、弟子たちに、まだ眠っているのか、とイエスは言い、「時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう」と、イエスは言って、十字架への道に向かっていったというのです。

・私たちは、ゲッセマネの園で祈るイエスを通して、悲しむ者として、人間が経験するすべての重荷を一心に背負っておられる方が、今も私たちの間に立ちたもうということを知らされるのです。ゲッセマネの祈りにおけるイエスの弟子たちに向けられた「目を覚ましていなさい」という警告についても、今私たちに向けられている警告として聞かなければなりません。私たちの日常立っている場は、突き詰めていったとき、そこにはイエスによって背負われている悲しみが今も存在していることに気づかされます。それは私達人間の罪の現実でもあります。人間は皆神のもとにあって兄弟姉妹のはずなのですが、今の日本でも、福島の人たちや沖縄の人たちが国の棄民政策によって、切り捨てられている現実があります。私は最近ある人から一冊の本をもらいました。彼は自分が読んでみて、私にも読んだ方がいいのではとくれたのだと思います。その本は赤木智弘さんという人が書いた『若者を見殺しにする国』という本です。この人は団塊世代のジュニアの世代で、バブル崩壊後に成人に達し、定職につけないまま親の庇護のもと年収130万円前後で生き延びている30代の若者が、この日本の国から見捨てられていると言っているのです。現在の日本社会の平和は、「安定労働者の経済を守るために、貧困労働者が犠牲になる平和。家族を守るために、家族を持てない人間が不幸になる平和。強者女性の人権を守るために、弱者男性が差別される平和」であって、そんな平和はウンザリだ、とこの著者は言うのです。そして逆説的な言い方ですが、「希望は戦争」と書いて話題になったようです。彼は「希望は戦争」という言い方で、「戦争という道具によって『現状の平和』を打ち壊し、新しい秩序や平等な平和を達成出来るかもしれないという希望をかきあらわした」と言っています。現在の日本社会では「仕事くれ」「金くれ」という貧困層が相当生まれていて、一方でそういう人たちを切り捨てることで平和と安定を享受している人たちがいるというのです。それだけ現在の日本の社会では経済的格差の問題が深刻になっているということでしょう。福島の人たちや沖縄の人たちだけでなく、この国は若者も見捨てているというのです。

・このような人間の現実の中で、その亀裂を負って悲しみ祈るイエスがいるのです。

・イエスの悲しみが人と人との関係においてすべての人が担わなければならない重荷を担うことと深く関わっているのだとすれば、「目を覚ましていなさい」との警告も、私たちに向けられていることを知らなければなりません。「眠る」ということは、象徴的な意味を持っています。自分が今負わねばならぬ重荷を、眠るという形で回避しているということでもあるからです。弟子たちが居眠りをしていたとき、イエスは真剣に祈り続け、そして、「時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう」と言って、自ら引き受けなければならない受難と十字架死という現実に向かって歩んで行きました。それは、この世の現実の只中にあって、すべての人に開かれた神の国の義と平和と喜びを望み見るイエスの信仰ではないでしょうか。そのイエスの信仰によって、私達は、人間が人間を排除、切り捨てるという悲しい現実の中で、それはおかしいという声を上げつつ、人が人を大切にする神の国の義と平和と喜びに至る道を、自分の十字架を背負いつつ歩んでいくようにと、招かれているのではないでしょうか。

・悲しみを担うイエスによる「目を覚ましていなさい」という呼び掛けが耳に響きます。眠ることによって現実を見ないで済ますのではなく、目を覚まして現実を直視することによって、神の国の到来と実現を信じて最後まで歩まれたイエスの後に従って生きていきたいと願います。