なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(118)

 昨日、今日と本当に暑い日が続いています。昨日は午後1時ごろ鶴巻を出て船越に移動しました。その時もうだるような暑さで参りました。今日は、寿で寿地区センター主催の「青年ゼミ」があり、朝早く船越から寿に出かけました。炊き出しの準備に間に合うためです。寿の炊き出しは毎週金曜日行われていますが、このところ毎年8月だけはお休みにしていますので、7月最後の金曜日の今日で、昨年9月から行ってきた炊き出しの年間最後になります。寿青年ゼミはこの炊き出しの準備から始まり明日の夕方までプログラムがあります。私は昼過ぎまで参加し、明日私の裁判支援会の「報告・討論集会」がありますので、その準備のために失礼させてもらいました。

 寿地区センター主催の「青年ゼミ」は年3回行っていますが、毎年7月末に、大学生が夏休みに入った直後の時期を見計らって第1回を行っています。第2回は11月末が12月初めに行い、年末年始に行っています寿の越冬活動へのガイダンスにしています。そして、第3回は2月頃「しゃべり場」として、第1回、第2回青年ゼミの体験を踏まえて話し合うことにしています。私は寿地区センターを支える神奈川教区の寿地区活動委員会の委員長をしていますので、寿青年ゼミではオリエンテーションの時に挨拶をすることになっていますので、今日も出かけました。

 さて、今日は「父北村雨垂とその作品(118)」を掲載します。  


           父北村雨垂とその作品(118)

 (1964(昭和39)年の日記の最後の部分は割愛しました。これから最後の4冊のノートになりますが、一葉、四季、四季、風雪(ハードカバーのある原稿日記)に書かれたものを掲載していきます。4冊は内容に関係なく、書かれた年代順に掲載します。最初に「一葉」から)。

   原稿日記「一葉」から(その1)

  讀んで 観る私の日誌   雨垂

 特記 私の体調から死期の遠からざる自覚あり。本集には川柳研究誌に発表した難解性の問題 ~川柳研究239号(1969[昭和44]年11月号)、240号(12月号)、241号(1970年[昭和45年]I月号)242号の三回の分は轉記困難《体調不良》のため~ を中止する。亦同じく川柳研究誌に発表した「俳諧歌仙と西脇順三郎の詩について」も同理由により轉記を中止する(欄外に赤字で「p.149~p.192に轉冩スミS54.5.4」とある)。但シ綴込ミ~黄表紙~に川柳誌と共に貯へてある。

 私の屡々用いる「分裂」の本質的な意味は、
 ニーチェの「力への意志」と 偁う造語の意味に近い ~又それによって開眼したものであり~ので本質的には同じ血液型と考へてみていただければ、大体納得がゆく筈である。

 ハイディッガーの著書『ニーチェ』の日本訳が出たので~白水社版園田宗人訳、理想社版細谷貞雄訳=讀んでいるうちに、存在への関係が、ひとつの分裂的な関係として現われる、とあるので、実は私が、かつて川柳「鷹」に ~終刊号S41、7月678合併号~ に発表した分裂の抽象的世界像の中で存在について書いてあるものと近い関係であり、いささか自信めいたものが、そんな手應えがあったことを記しておく。

 尚、私の分裂の作品は、純粋経験西田幾多郎著『善の研究』)による意識の分裂を起点として、二次的に生産された思惟が表現したところの形而上学的な川柳作品として発表したものであり、ハイディッガーの分裂は哲学者として意識の分析の上に於ける論理→哲学であるところの相異がある。

(上記「分裂」の父の句は、このブログの「父北村雨垂とその作品(18)」に掲載したものではないかと思われます。)


 力の反省について
 力の自覚的限定から、力の次元→相
 力の非相性=非科学性が=力の本質
 力の→時間の参加による二次元以下四次元的表象=力の有相的《具象的》自己限定=力の二次的指向性、精しくは無の力の二次的指向性が無なる力 の無との分裂、そのエネルギッシュなる力への意志ニーチェの生成であらう。→〔無の自己分裂〕

 力は見ることも觸れることも、聞くことも出来ない非相の相、即ち非、非相のものと考へられるフッセルのノエマノエシスの思想に近い。これは西田幾多郎説にも近い。即ち一般者の自覚や、無の自覚等に最も近い。而しこの大同にして小異なるものの内に誤認の原点があるのではないかとも考へられる。ニーチェの言葉には難解なものであり、私は唯その感觸に於て自由に理解することに努めてゐる。