なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(129)復刻版

     
       黙想と祈りの夕べ通信(129[-24]2002.3.17発行)復刻版

 今は受難節の時期を過ごしています。私は、病気で入院している方を見舞うときに想い起す聖句があります。それはマタイによる福音書8が要17節です。元来イザヤ書53章の苦難の僕の歌の一節ですが(4節)、マタイによる福音書では、その言葉がイエスに当てはめられて語られています。

 「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」。

 この言葉は、イエスが「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」というわけですから、私は、病気の方を見舞う度に、その方の病を負い、担っていて下さるイエスがいらっしゃるのだということを想い起します。そして、私の見舞う病床にある方は、「なぜ自分がこんな病気にかかったのか」という問いを投げかけることなく、黙々と病を担って行かれる方が多いのです。昨年7月に召されたM兄は、私が7年前に当教会に牧師として着任したときに、既に病を得てから数年が経っており、車椅子の生活でした。

 兄とは6年数か月の関わりで、私の知る限り、数箇所の病院に入院し、寒い冬と暑い夏には数箇所の老人保健施設での生活をしました。最後は藤沢の病院で意識も朦朧となりましたが、お連れ合いは、M兄の信仰が支えられるようにとおっしゃっておられました。病という重荷を担って、黙々として歩まれているご夫妻の姿に、見舞う私の方が励まされていました。受難節に当たり、イエスの十字架について思い巡らしていますが、苦難を担うということについて、病を負っている方々のことを思い起こしながら、お話しさせていただきました。

 上記の私の発言に続いて、一人の姉妹が、似たような話になるがと、以下のような発言をしました。今日の通信にあるルターの「苦しみは必ず来る」という文章の中にも、苦しみを担うということが書かれている。昨日の保土ヶ谷の家庭集会で一人の姉妹が司会をして祈られた。その姉妹の祈りの中で、生前保土ヶ谷家庭集会によく出席され、先日召されたN姉について祈られた。「N姉の命を、あなたは天にお帰し下さいました」と。その祈りに私は感激した。

 一般の宗教は、苦しみがなくなり、幸せを得るためにお参りをすることが多いように思う。それに比べると、教会に連なっている方には反対の姿勢を感じる。電車などで隣り合わせた方がお仲間に、私はこの宗教に入ったお陰で、お店が繁盛しているというようなことを言っていることを聞くことがある。そういう人の言葉を聞いて、キリスト教との違いを感じる。

 「あなたは天にお帰し下さいました」という祈りには、一人の姉妹の死をただ淋しいとだけ感じる思いとは違うものがあるように思われる。もし淋しいということならば、「あなたはなぜ姉妹の命をお取りになったのですか」と祈るのではないだろうか。ルターの最後の言葉が響く。「もしわたしがキリスト者であるならば、それにふさわしい服装をしなければならない。愛するイエス・キリストの法廷に出るためにお命じになる服装はただひとつ、苦しみという服装である、と」。

 イエス・キリストの十字架の苦しみに与って、この世の苦しみに勇気をもって向かうことができる。それが喜びではないかと思いたい。自分はまだ未熟だが、苦しみを喜びと感じられる信仰に近づきたいと思う。

 また、一人の兄弟は、自分の状況と弘前武富士の殺人放火事件で家族の方が犠牲者になった青森の教会の教会員の悲しみについて話された。



    「みことばと祈りこそ私たちの武器」(『ルターによる日々のみことば』より)

 「するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕え   よ』と書いてある」
                        マタイ4:10

 みことばと祈りは、悪魔をおそれさせ、打ち倒すふたつの武器です。神のみことばをたえず聞き、みことばのうちに自分を教え、みことばによって慰められ、励まされていることがひとつの武器であれば、試練と戦いが来た時に、同じみことばに心をよせ、神に助けを呼び求めるのは、もうひとつの武器です。こうして、ふたつの武器のどちらかをいつも持っていることになり、神と魂の間に永遠の会話がつづきます。神がわたしたちに語りかけられ、わたしたちが静かに聞いているか、わたしたちが求めを告げ神に語る時、神が聞いていてくださるかです。

 どちらにしても悪魔はこれに耐えることができず、これに対して抵抗をつづけることができません。それゆえ、キリスト者はこのふたつの武器を帯びなければなりません。それによって心はつねに神に向けられ、みことばを守り、たえざるため息とともに、「われらの父よ」と祈り続けるのです。こうした忍耐は、悪魔と、世と、肉により、たえず攻撃される誘惑と試練を通して学ぶのであり、それによって、キリスト者はたえず頭を上げ、一瞬も眠ることなく休むことのない敵の攻撃を見張っていることになります。

                                 1539年の説教から