なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(57)

    
      マルコ福音書による説教(57)マルコによる福音書14:1-11、
               
・今日は、この所に記されていますひとりの女の行為に注目してみたいと思います。マルコによる福音書では、この女の行為の前には、祭司長たちや律法学者たちが策略をもってイエスを殺そうとする計画が記されています。また、この女の物語に続いて、イスカリオテのユダの裏切りの行為が記されています。殺害と裏切り、何とも陰惨な人の行為です。その間に挟まる形で、このひとりの女の行為が記されており、この女の行為がイエスによって積極的に受け容れられているのであります。

・ここに出てくる三つの行為(イエス殺害計画、女の香油の注ぎ、イスカリオテのユダの裏切り)は、すべてイエスの十字架に関わっています。

・ひとりの女の行為を伝えるこの物語は、福音書に伝えられていますさまざまなイエスに関する物語の中で、一つ、他とは違う特徴があるように思われます。それは、他の物語では、イエスが能動的に活動していることが多いのです。病人を癒したり、パリサイ人、律法学者と論争したりして、です。ところが、この物語においては、イエスは終始受け手の立場に立っています。女から香油を注がれるのを黙って受けているのです。そういうイエスの姿がここには描かれています。そのようにじっと黙って女の油注ぎを受けているイエスの姿を想像してみますと、そのようなイエスの姿は、私たちに大変新鮮な感じを与えるのではないでしょうか。

・そして同じように、じっと黙ってされるがままに人々の行為を受けていた十字架上のイエスのことと比べて、この女の行為を受けているイエスのことを考えて見ると、どうでしょうか。二つのイエスの姿には共通したものがあるように思えてなりません。ただ、女の油注ぎを受けているイエスには平和と喜びがあり、十字架上のイエスには苦しみと悲しみがあるのではないかと思います。両者は共に他者である隣人との関係ですが、一方には「平和と喜び」が、他方では「苦しみと悲しみ」があるわけです。イエスがどちらの関係を希んでいたのかは明らかです。

・この女がイエスにこの高価な香油を注いだ動機は何であったのでしょうか。この聖書の箇所には何も書いてありませんが、イエスの言葉の中に、「わたしに良いことをしてくれたのだ」、「この人はできるかぎりのことをしたのだ」と言われているところからしますと、この女はイエスに対して自分の思いの全てを、この香油を注ぐ行為に表していると見てよいでしょう。それがどんなに他者には非常識に思われようとも、この女にとっては、イエスに対して精一杯のことをしたわけです。イエスはそういう女の行為を、その行為がああだ、こうだという評価抜きに受け入れておられるのです。

・しかも、女がその行為に込めていた思いを、イエスはそれ以上に高めてその行為に意味を見い出しているように思われます。「つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう」(8-9節)。もしかしたら、この部分は、イエスが実際に語ったものというよりは、この女の行為に対する後の教会による意義付けかも知れません。この女の行為を受け容れて、女に「わたしに良いことをしてくれたのだ」、「この人はできるかぎりのことをしたのだ」と言われたイエスのことを考えての上だとは思いますが。

・女の行為とそれを受けているイエスとの間には、心と心が共鳴している何かを感じさせられます。女は自分なりに、常識的にはむちゃくちゃな行為ではありますが、イエスへの彼女の親愛の情をこの油注ぎの行為に込めているのです。イエスはそういう女の心からなる思いを、この女の非常識な行為の中に見て、それを心から受け容れておられるのです。この女とイエスとの間には響き合う関係が成立しているのです。

・そのようなイエスに対して、この女の行為を見ていた人たちの中には、そのむちゃくちゃな女の行為を憤って、このように言ったと、4、5節に記されています。 「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」と。すなわち無駄使いを責めていることと、貧しい者に施すことができたのにという点です。

・この女の行為に対するそのような人々の批判は常識的には正しいかも知れません。イエスに注いだ香油は、売れば三百デナリ以上にもなったということですから、当時の日雇い労働者のほぼ一年分の報酬に当たります。大変な額です。たしかに「無駄使い」かも知れません。けれども、女が行った行為に対するこの人たちの批判(非難)には、この女が何故にそのようなことをしたのかということが殆ど考慮されていません。むしろ、「無駄使いはよくない」とか、「貧しい人に施すべし」という常識や法(ユダヤ的律法)を基準にして女の行為を判定しているわけです。女の自発的な行為を、その女に即して受けとめようとするのではなく、一般的な常識や法を基準にして、なされた行為を判別することによって、女を裁いているのです。

・このような他者や他者の行為に対する人々の態度は、イエスの場合とは全く対照的ではないでしょうか。そして、私たち自身はどうでしょうか。女を非難した人々のようなことを他者に対して、しばしば行っているのではないでしょうか。特に親子の関係において、親は子どもに対して、どれだけその子の自発的な行為を受けとめ得ているか、自分自身を顧みてみますと、大変恥ずかしい次第です。私たちは自分から何かをすることはできても、人から素直に受けることがなかなかできないものです。他者の行為を受けることができるのは、その人を心から受け容れているからです。その人の人格を認め、共にあることを喜ぶことがなくて、人の行為を受け容れることはできません。

・それにしても、この女の行為は、考えてみますと、全くイエスに対する彼女の個人的応答ということになります。一見途方も無い仕方でではありますが、彼女は、イエスへの彼女の思いをこのような行為によって表したているのでしょう。ウィリアムソンは、「彼女の行為は、イエスへの個人的な愛から生じている。それは時折あらゆる形式を破り、常識を無視し、単純に献げることになるのである。自発的で打算のない、無欲の、時にかなった彼女の献げものは、このような仕方においてもイエスを愛することへと、われわれを招くが、イエスへの愛を表現する他の人々のやり方を批判することを求めてはいない」と。

・この自発性は、キリスト教的な伝統的言葉で言えば、感謝であろう。自発性は何もないところからは生まれません。この女の場合、そして私たちキリスト者の場合、何よりもイエスの大きな出来事、言ってみれば、神の自発的な私たち人間に対する献げと言ってよいでしょう。それに応える人間の応答としての献げ、それがこの女の行為の意味でしょう。私たちの根本に、そのような応答がないときには、むしろキリスト教的な奉仕の務めが喜びとしてではなく、律法的な重荷となってしまうのではないでしょうか。

・マルコは、この女の行為が福音が語られるところではどこでも、一緒に宣べ伝えられると語りました。女の名前ではなく、女の行為がイエスの出来事と共に語られると。それはイエスに油を注いだことがイエスの葬りの用意になったということもあるかも知れませんが、それ以上に、イエスの大きな愛に応える人間の小さな愛として、イエスの福音に必ず付随というのでありましょう。

・第一コリ13:3、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてもわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」と言われています。このパウロの言葉に照らして、イエスに香油を注いだ女の行為を非難批判した人たちのことを考えますと、そのような人たちは自分を誇ることに繋がる愛のない外面的な行為を重視しているということではないでしょうか。

・私たちも、改めて自分自身の中に、この女のようなイエスへの応答があるかどうか、自己吟味をしたいと思います。イエスは、マタイによる福音書25章31節以下で、「・・・わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われたと記されています。この「わたしの兄弟である最も小さい者」とは、ご存知のように、飢え渇いている者であり、宿のない旅人であり、着る物のない裸の人であり、病人や獄中の人です。この世の中で命と生活が圧迫されている人々です。そのような他者を通して私たちと出会うイエスへの献げをもって、彼ら・彼女らを抑圧差別している力に抗う平和の確立と人権の擁護に繋がる働きに参与していきたいと願います。