なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(68)

      
          船越通信癸僑検  。横娃隠嫁7月29日     


・22日の礼拝説教は、マルコ福音書14章1節以下のイエスに高価な香油を注ぎかけた女の物語を扱いました。28日の私のブログにその時の説教を掲載していますので、そちらをご覧いただける方はブログでお読みください。私はこのひとりの女の行為を何も言わずに受け入れたイエスは、常識的にはどんなに型破りであっても、その人の真摯な思いをそのまま受け取って下さる方ではないかと思いました。ひとりの女の人とイエスの間には心と心とが通じ合う共鳴関係が生まれているのでしょう。人と人との間に共鳴関係が成立することによって、そこから人は生き抜くエネルギーを得ていくのではないでしょうか。

 重荷を負って生きている人にとって、何よりも力になるのは、具体的な援助もさることながら、自分の苦しみに耳を傾けてくれる人の存在ではないかと思います。つまりその人と寄り添って共に悩み共に喜ぶ他者の存在です。イエスもまた、香油を自分の体に注ぎかけてくれたひとりの女に、自分に寄り添い共に悩み共に喜ぶ他者の存在を感じたのではないでしょうか。この女の存在によってイエスもまた慰められ、力づけられたのかも知れません。

・22日の日曜日は、礼拝後お茶を飲みながら懇談し、皆さんが帰った後、私は午後4時過ぎまで船越教会にいて、午後6時から東京の教会で開かれる集会に参加しました。この会では聖餐についてM牧師がご自身の体験に基づいて発題をしてくれました。M牧師は宣教師として海外経験が豊かな方で、自分が赴任した教会ではオープン聖餐のところも、クローズドのところもあったが、その教会のやり方に従って来た。教団はクローズドを志向していると思うし、今自分が牧師をしている教会もクローズドなので、それに従って聖餐式をしている。もし今の教会でオープンにしようとすれば、教会は分裂してしまう。聖餐式の問題は、教会を分裂させてまでの問題とは思わない。

 ただ〈「教憲教規を守れ」と躍起になる方々の日本基督教団を思う熱意はわからないでもないが、それが神の意志を飛び越えて、私たちの教団が知らずして神に逆らう道を歩むことのないように、と願っている。これは一昨年の教団総会の前にこそ言うべきであったが、今からでも遅くはないと思う。/最後に、今私たちが聞くべき言葉として、…ブラジル・メソジスト教会の『聖餐式についての監督会議からの牧会書簡』の序文の中の文章を紹介したい。「聖餐は不和の動機とされてはならない。反対に、次のような共通の夢~私たちの間の神の国、すべての者の救い、私たちの間に生き生きと働く神の愛と慈悲~においてひとつとなるべきである。」〉と。

 M牧師の発題をめぐって懇談の時をもちましたが、その後私の裁判の現状報告をさせていただきました。

・26日の木曜日には夜聖書研究会がありました。開始が少し遅れましたが、私の他に4人の方の出席があり、上村静さんの『旧約聖書新約聖書~聖書とはなにか』の「第一章 ユダヤ教の成立とモーセ五書の編纂~民族アイデンティティの危機とその克服~」の前半を扱いました。私が内容の要約をして、自由な話し合いをしています。今回の部分は、「ユダヤ人の『民族意識』には、血縁集団と特定の神への信仰共同体という二つのアイデンティティが混在しているのである。そしてヤハウェ神を中心とした民族の歴史物語が書物としてまとめられる。それがモーセ五書である。

 モーセ五書が民族の「歴史」となり、同時に「神の教え」となったとき、狭義の民族宗教としてのユダヤ教が成立(再確立)したと言える」(p.56-p.57)と記された、ユダヤ教の成立までのイスラエルの歴史を概観した後、創世記機11章に記されています「原初史」と創世記12章以下とアブラハムの選びからはじまる選民イスラエルについて上村さんの解釈が展開されています。
 
 原初史については、‥恵倭和な語、⊆些擶燹↓人間と罪、た洋爐僚民族への分化 という項目で創世記1章から11章の内容が記されています。そしてこの部分は「聖書の冒頭に置かれた人類の原初史は、理想的な世界の誕生としての天地創造・人類創造から、最初の人間の禁令違反、その結果としての兄弟間の殺人事件、人類の罪とその罰としての大洪水、そして人間の高慢の結果としての諸民族への分化を物語る。

 ここには、人間存在の三つのあり方が描かれている。個人としての人間、そしてそれが最初の人間であるがゆえの普遍的な人間性、その普遍性ゆえの人類、そして民族集団としての人間である。それぞれは、人間の「罪」というテーマで結合されている。人間に内包されている悪の問題を徹底的に冷厳に描いている。しかし、神はこの状態を放置しておくわけではない。壮大な視点から人類の救済を展望している。その役割を担うのがイスラエルの民である」(p.78-p.79)とまとめられています。

 この部分に、聖書全体のテーマが描かれていると考えられます。人間の罪とその克服が聖書のテーマと言えるでしょう。創世記12章以降は、その課題を担ってアブラハムが選ばれ、選民イスラエルの歴史が描かれます。今回はシナイ契約のところまで扱いました。選民イスラエルを通して全人類の救済が試みられますが、イスラエルは「契約と法」によってその道を歩んでいきます。けれども法の遵守による契約の成就にイスラエル挫折してしまいます。法の遵守による神の契約の成就に挫折するイスラエル史のなかからメシヤ預言が生まれ、神から派遣される救済者の到来が待ち望まれていきます。この待望が、文字によらない霊によるイエスによる新しい契約によって実現したというのが最初期教会の信仰なのでしょう。このような聖書全体のテーマを理解して、聖書の各文書を読んでいきますと、そこからのメッセージを受け取りやすくなるのではないでしょうか。

・27日には午前中寿青年ゼミに出席し、28日には私の裁判支援会による「報告・討論集会」に参加しました。暑い日で土曜日午後にもかかわらず92名の出席がありました。感謝です。