なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

創世記1章から11章による説教(8)

23日の日曜日の礼拝式と説教原稿を会堂での礼拝に出席される方や教会員の方に送る時に、今回は下記のような書簡を添えました。

 

皆さま

おはようございます。

マタイ福音書による説教を終えて、創世記1-11章の聖書の問題提起の箇所を扱いました。今日でそれも終わります。この創世記1-11章については、ほとんど秋田稔さんの『聖書の思想』の当該箇所を参考にさせてもらいました。来週からは「ローマの信徒への手紙」から説教をしたいと思っています。

私は若い時に田川建三さんによる「現実と観念の逆転」(信仰には歴史的現実が観念となり、

キリスト教教義を現実とする逆転がある、その張本人がパウロだと、田川さんは言うのです。)

に影響されたのか、パウロを敬遠してきたところがあります。でもパウロとも真剣に向かい合わなければならないと思ってきました。そこでマタイ福音書が終わった時に、次はローマの信徒への手紙にしようと思いました。心の準備のために、創世記1-11章を間に入れさせてもらいました。ということで、今まで以上にしっちゃかめっちゃかになってしまうかも知れませんが、来週からはローマの信徒への手紙を説教のテキストにさせていただきます。

本日の礼拝式と説教原稿及び週報を添付します。

新しい一週の皆様一人一人の歩みの上に主の支えをお祈りいたします。

                      北村 慈郎

 

5月23日(日)ペンテコステ礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌    355(主をほめよ、わが心)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-355.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編51編12-19節(讃美歌交読詩編56頁)

       (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   創世記11章1-9節(旧約13頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  342(神の霊よ、今くだり)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-342.htm

説教      「バベルの塔」     北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 今日はペンテコステの礼拝です。本来ならペンテコステにふさわしいテキストで説教をすべきですが、今日はお許しをいただいて、創世記1章から11章の始原史の最後であるバベルの塔物語から語りかけを聞きたいと思います。

 

  • ノアの洪水によってノアとその家族以外の人間はすべて死に絶えてしまいました。10年前に起きた東日本大震災の時、海から押し寄せる津波の破壊力の凄さを、テレビの放映で、私たちは目の当たりに見せつけられました。あっという間に家が破壊され、人も自動車も町ものみ込まれてしまうのです。

 

  • この東日本大震災の大津波の恐ろしさを思うと、津波ではありませんが、同じ水による災害である洪水の恐ろしさも想像できます。ノアの洪水の場合は、40日40夜雨が降り続いて、山の頂も水没してしまうほどなのですから、ノアとその家族のように箱舟にいて、その難を逃れる以外に生き延びることはできません。ですから、ノアとその家族以外のすべての人がこのノアの洪水によって死に絶えてしまったのです。これは、人間の悪と腐敗の広がりを見て、神が人間を造ったことを後悔し、人間の罪への裁きとしてくだされ神の審判です。

 

  • 「裁くということは、裁くに価するものとして責任を負わせることです。神は人を生かすも殺すもこちらの勝手というような、道具のようなものとしてではなく、責任を負うべき人格としてつくったのです。人は責任を負うべき存在であり、だからこそ、神は人の責任を追及するのです。責任を負わせることの中には、実は責任を負うものとして目覚めさせようとする心があります」(秋田稔)。ノアの洪水を敢行した神の裁きには、このような神の心が秘められていたのです。

 

  • 神は洪水に際して、ノアに恩恵を与え、ノアを通して、もう一度責任を負う人格としての人間への道を備えようとされました。ノアは、神への従順、真実なるものへの服従において、責任を負い抜く新しい人間をさししめしたのです。けれども、「こと罪とか罰に関する限り、人間は歴史とか先例からなかなか学びません。その結果、前車の轍を踏むことになります。アダムの罪をその子孫は繰り返し、罪の子であることを知らされます。ノアの子らも例外ではありませんでした。ここから創世記11章のバベルの塔物語が展開するのです」(同上)。

 

  • ノアの子孫は移って、シンアルの地(メソポタミア)に平野を見つけ、そこに定住しました(11:2)。ここで文化の華が開きます。偉大なメソポタミア文明の展開がこの物語の背景にはあると思われます。社会機構も整備し、複雑となります。この文化と社会の発展の中で、人は何を思い、何を試みたのでしょうか。

 

  • 11章4節にこのように記されています。≪さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と。これは、人間社会の発達を描きつつ、その背後に専制王国の首都建設を想像させるような叙述です。首都の中央に、どこからでも見える巨塔を立てようというのです。そこには権力の集中と、それによる社会の統制がもくろまれているように思われます。権勢をもってまさに神と拮抗しようとする権力者の姿です。文化は飛躍的に発達し、王の支配下にあった人心も、何でもできるかかのように驕り、高ぶるようになります。巨大な王国、栄華を誇る文化。しかし、その奥には、権勢欲と不敵な自信と傲慢があります。バベルの塔物語の記者は、さらに問題を掘り下げて、文化、社会の発達そのものの中に、手放しで喜ぶことのできないどす黒いものがあることを決して見逃しませんでした。

 

≪主は降って来て、人の子らが建てた、塔のある町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、    

皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられぬようにしてしまおう」。/主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからです≫(11:5-9)。

 

  • ここでは、権力組織、文化の底に潜む人間の罪が指摘されています。それと共に、言葉を異にする民族の成立が人間の罪と無関係ではないことが主張されていま。華やかな文化に心奪われて、無批判にこれに追従し、謳歌しているのではありません。また、民族と民族との間の解きがたい問題性を見逃さなかった聖書の民は、ある意味でおどろく程現代的でもあります。現代ほど、文化の発達がそのひずみを露呈し、民族、人種問題が複雑深刻になっている時代は、かつてなかったからです。

 

  • 日本でも在日コリアンに対する差別であるヘイトクライム(憎悪による犯罪)が問題になっています。川崎のふれあい館に送られてきた年賀状には、「謹賀新年 在日韓国朝鮮人をこの世から抹殺しよう。生き残りがいたら、残酷に殺して行こう」と書かれていたと言うのです。アメリカでも、現在黒人差別だけでなく、アジア人へのヘイトクライムが問題になっています。しかもアジア人へのヘイトクライムには白人だけでなく黒人も加わっている例があると言われます。
  • 中国のウイグル人チベット人、そして香港人への人権侵害が、西側の国から指摘されています。イスラエルパレスチナ人の間の問題も含めて、民族、人種問題は、現代の世界が抱えている大変厳しい問題です。

 

  • この聖書の箇所は、そういう民族、人種の問題だけでなく、もっと一般的にみても、人間の高慢、神から離れ、自らが神のようになろうとする心が、お互いを結び合わせるどころか、人間相互の無理解を生み、かえって人と人とを離してゆくという現実を鋭く見抜いています。そこには深い人間洞察が見られます。

 

  • この創世記11章のバベルの塔物語は、メソポタミア文明、特にマルドゥクの神殿と塔をもってメソポタミアに君臨していた神の都バベルをその背景として想定させると言われます。そのバベルを聖書の民はバラル(乱す)と関係づけました。バベルとは、バビロニア語では「神の門」の意であると言われます。この塔はジックラトゥと言われ、その遺跡が残っています。底辺が約90メートル四方、高さも約90メートルの台形の建造物で、3層ほど積み重ねられていて、バビロニアの神々を崇拝する礼拝場所であったと考えられています。

 

  • イスラエルの先祖が最初に住みついた地、そして最初に接した文化も、メソポタミアとその文明でした。また南王国ユダが滅ぼされ、イスラエルの民の捕囚の地になったのもメソポタミアでした。大国に支配され、弱小民族であるイスラエルが、支配民族に吸収されることなく、逆に自分たちを支配しているバビロン王国がはらむ問題を、人間の問題性の次元にまで深めて大胆正確に把握し、批判したことは、驚異であるというほかはありません。イスラエルの民の神(ヤㇵウェ)信仰が、この世の権力に屈せず、おそれず、また自己正当化をも拒否して、このような自己をも含めての人間の真相、その問題性指摘を可能ならしめたのです。

 

  • ところで、創世記1章から11章までの始原史では、最後のバベルの塔物語までは、神は裁くと共に救済の手を差し伸べられていました。神の命令を破ってエデンの園を追放されたアダムとエバに対して、神は≪皮の衣を作って着せられ≫ました(3:21)。弟のアベルを殺したカインには「しるし」をつけて、カインを復讐から守りました(4:15)。洪水で人類を滅ぼした時には、ノアに箱舟を造らせ、ノアとその家族を滅亡から守りました。バベルの塔物語には、神の裁きだけで救済はないのでしょうか。

 

  • 高柳富夫さんは、バベルの塔物語も、神の裁きだけでなく、神の救済が語られていると言います。少し長くなりますが、高柳さんが言っていることを紹介します。<神はたしかに裁きを行いました。けれどもそのときの言葉は、「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ」という言葉でした。一つであること、違いを認めないこと、それはだめだと言ったのです。だから違いをつくり出し、全地に散らしたのです。つまり、互いに言葉が通じなくなること、お互いに散っていくことは、表面上はたしかに裁きですが、同時にこれは、人間にとって実は大切なことなのではないでしょうか。むしろ、同じだから神の意志に適わなかったのであって、神は違うことを祝福し、良しとしたことを示しているのではないでしょうか。違うことが大事なのだ、それが人間の救いなのだ、と。/どういう救いかといえば、違いがあってよいという救いであり、違うことが祝福されるということでしょう。一つであることのほうがむしろ問題だ、と言っているのです。ですから、人間というものは、いろいろ異なる言語があってよいし、いろいろ異なる民族がいてもよいし、いろいろ異なる文化があってよいということです。そういうお互いにの違いを大切にしていくことこそが、人間にふさわしいということです。多様性を認め合って、お互いが相対的であることを認め合って、そして共存していくことが、神の意志に適うことであり、神はそれを祝福されるということなのです。/その意味で、原初史は神の恵みなしに終わっているのではありません。“多様性”の祝福という神の恵みが、裁きを通して与えられているのです。ですから、バベルの塔物語も、これまで原初史を構成してきた主要な物語と同様に、同じテーマで貫かれていたということになります>と。

 

  • 高柳さんも言っていますように、多様性を認め合い、お互いの違いを認め合って共存していていけるかというは、21世紀の人類の最大のテーマの一つであります。私たち船越教会の平和センター宣言も、そのことを語っています。「私たちは、先の戦争に対する責任を自覚し、いのちを脅かす貧困、差別、原発、軍事力をはじめとするあらゆる暴力から解放されて、自由、平等、人権、多様性が尊重される平和な世界の実現を求め、共にこの地に立つことを宣言します」。

 

  • 創世記1―11章は、今まで見てきましたように、人間についての全人類的な問題把握であり、問題提起でもあると言えます。そのことを踏まえ受け止めて、創世記12章1節からは、アブラハム物語の形で一民族イスラエルが登場してきます。この民の歴史は、全人類的な問題のただ中に、自らもその問題性を背負いつつ、それをうけとめ、世界の歴史の一員としてはじまるというのです。弱小民族とはいえ、人間、社会、歴史をめぐる問題性の中にただ無意識、無反省に埋没するのではなく、それよりの脱出をめぐり、その責任と役割の自覚においてこの民は歴史の中に登場するのです。楽園喪失にはじまるような悲惨、その奥にある人格的な罪の問題を自らに背負い、真実に生きる道を、神への信仰において貫こうとする民としてわれわれは出発したのだという、このような民族的発足の自覚の仕方をした民族が他にあるでしょうか。それは、人間の歴史の中を真実に生きようとする、全ての者の、決して無視することの出来ない一つの歩みの始まりでもあるのではないでしょうか(秋田稔)。

 

  • 私たちは、ひとりの人間として、原初史が物語る人間の問題性を踏まえて、このアブラハムから始まる神への信仰によってこの歴史の中を真実に生きようとする歩みに参与するようにと招かれているのではないでしょうか。私たち船越教会の平和センター宣言は、私たちなりの神の招きへの応答ではないでしょうか。もう一度平和センター宣言を想い起して終わりたいと思います。

 

  • 「私たちは、先の戦争に対する責任を自覚し、いのちを脅かす貧困、差別、原発、軍事力をはじめとするあらゆる暴力から解放されて、自由、平等、人権、多様性が尊重される平和な世界の実現を求め、共にこの地に立つことを宣言します」

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 今日は創世記11章のバベルの塔物語からあなたの語りかけを聞きました。バベルの塔を築いた古代メソポタミアの王は、それによって自らの力を示し、人々を自分に従わせようとしました。上に立とうという私たち人間の権力欲の現れです。神はそのバベルの塔を崩壊させ、人を多様性の中で、あなたの下に互いを認め合って生きるようにされました。その実験は、神がイエス・キリストを私たちのところにつかわしてくださることによって、今も続いています。しかし、人間の現実は、今もバベルの塔を築く罪の試みが絶えません。どうか私たちを、人間である己に絶望することなく、あなたを信じ、イエス・キルストを信じ、互いの違いを認め合って、共に生きることができるようにお導き下さい。
  • 差別と偏見を持って他者に暴力で迫る人の心を変えてください。またその暴力で苦しむ人々を助けてください。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌        58(み言葉をください)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-058.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。