なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

創世記1章から11章による説教(1)

3月21日受難節第五主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                    (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃美歌    205(今日は光が)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-205.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編118編1-9節(讃美歌交読詩編129頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  創世記1章1―2節(旧約1頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  227(主の真理は)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-227.htm

説教     「はじめのはじめ」  北村慈郎牧師

祈祷

  • 今日はマタイ福音書から離れて、創世記1章1-2節をテキストにさせていただきます。前回(3月14日)はマタイ福音書のイエスの埋葬の記事(27:57-66)でしたが、マタイ福音書では次にイエスの復活の記事(28:1-10)になります。今年のイースターは4月4日(日)になりますので、その日の説教でマタイ福音書の復活の記事をテキストにしたいと思ったからです。そこで今日と次の日曜日は創世記の1章、2章の神の天地創造と人間の創造をテキストに説教することにしました。

 

  • 創世記をテキストとする説教は、マタイ福音書が終わった後(4月18日から)、11章までしばらく続けます。創世記1章から11章は、神に選ばれた民イスラエルの父祖アブラハム物語が創世記12章から始まりますが、そのアブラハム物語の前の人間の始原史(原初史)を記しています。この個所は「聖書の問題提起」(秋田稔)と言ってもよいかもしれません。人間の創造を冠とする天地創造にはじまり、アダムとイブにはじまる人類は罪を犯し、楽園を喪失し、ノアの洪水物語、バベルの塔の物語を通して、一つの言語を語っていた民は、言葉を通じなくさせられて全地に散らされ、民族が成立します。それが創世記1章から11章までの創世時代の物語です。そして民族と民族が相生き、相争う歴史時代に入ります。創世記12章からは、このような歴史の中での、アブラハムにはじまるイスラエルの民をめぐる記事に入ります。イスラエルの民は、楽園喪失という悲惨とその奥にある人格的な罪の問題を背負い、真実に生きる道を、神への信仰において貫こうとするのです。旧約聖書はそのイスラエルの民の実験を示す証言集と言ってよいでしょう。結局そのイスラエルの民の実験が失敗に終わり、新約聖書に繋がっていくのです。聖書全体をそういう信仰のドラマと考えれば、創世記1章から11章は、そのドラマの発端に当たり、問題提起の役割を担っていると言えるのです。

 

  • 今は教会歴ではレント(受難節)ですが、ご容赦いただきたいと思います。そこで、今日は創世記1章1-2節を中心に、私たちへの語りかけを聞きたいと思います。

 

  • 秋田稔さんは、「人間にとって実生活の上での事実的なもの、確実なもの、もっとも関係の深いことといえば、何よりも社会であり、自然であり、自分自身であろう」と言っています(『聖書の思想』23頁)。

 

  • 「社会」と「自然」と「自分自身」は、確かに私たちが生きる上で、確実に関わりを持たなければならない要因、構成要素と言えます。そして社会も自然も自分自身も、聖書によれば、それ自身で存在するというのではなく、神の創造により生まれたものです。神の創造は混沌から秩序を生み出します。それは、創世記1章1節から2章4節Aまでの、天地創造物語を貫く基本的な主張です。

 

  • 創世記1章1節、「初めに、神は天と地を創造された」は、天地創造物語の表題を示す言葉とも言われますが、これは作者の信仰告白と言えます。そしてその内容は、創造者なる神への賛美です。賛美はほめたたえることですから、「初めに、神は天と地を創造された」というこの信仰告白は、「神はお造りになったものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と1章31節で語られていますように、神の創造をよきものとして受け止め、喜びほめたたえているのです。

 

  • その意味で、この神の創造の業を賛美する信仰告白に即するならば、私たちは、社会も、自然も、自分自身も、良きものとして喜んで受け止めて、神を信じ、希望をもって生きていくことになるはずです。

 

  • ところが、現実はどうでしょうか。

 

  • 私たちは、極端に言えば、他者と関わらなくても生きていけますが、自分自身と関わらないで生きていくことはできません。自死を選ぶ人が、後を絶ちません。自死を選ぶ人は、自分自身との関りも否定しようとして、自死を選んでしまうのではないでしょうか。自分が嫌になってどうしようもならなくなってしまうからです。そういう自分を否定したくなる、自分自身を殺したくなるということだと思います。

 

  • 個人としての人間が生きていく上で、その人が自己尊重感を持てるかどうかが重要であると言われます。自己尊重感とは、自分は大切な存在だ、かけがえのない存在だと感じられるということです。そのためには、他者からあなたは大切な存在だ、かけがえのない存在だと受け止められることが不可欠です。

 

  • 吉本隆明は、0歳から2,3歳までに両親か身近な大人に十分愛された人間は、思春期にいろいろな悩み事にぶつかっても、それを乗り越えて生き抜けるだろうという趣旨のことを言っています。しかし、幼児期に何らかの傷を心に持つ者は、思春期から大人になって壁や苦労にぶつかると、それを乗り越えるのはなかなか難しいというのです。

 

  • その困難を、いろいろ本を読んで、知識を得て、それによって乗り越えることができた人もいるでしょう。幼児期に心に傷を抱えた人が思春期から大人になって、聖書に出会い、神の愛、こんな自分のためにも死んでくださったイエスの十字架の贖罪愛を信じて、イエスを信じることによって生き抜くことができたという人もいるでしょう。

 

  • いずれにしろ、自分自身がぐらつくと、私たちはなかなか前向きに生きることができません。虚無感に襲われてしまうことが多いのです。

 

  • 同じようなことが、自分自身だけでなく、社会や自然についても言えるのではないでしょうか。

 

  • 社会や自然が秩序正しく存在していれば、人は虚しさを抱くこともないかもしれません。愛と正義と公正に満ち溢れている社会であれば、人は、虚しさを抱くこともなく、喜んでその社会で生きていくことができるでしょう。しかし、権力や金を持つ人が支配する不公平で、暴力に満ちた社会を日々生きざるを得ない人が、その社会に虚しさを感じるのは当たり前ではないでしょうか。

 

  • 自然についても、同じです。昨日も宮城県沖で震度5強の地震がありました。地震は自然の秩序が壊されて、混沌の状態になるという恐怖を私たちに抱かせます。東日本大震災の時の地震と、その地震によって起きた大津波は、文字通り巨大な破壊と言ってよいでしょう。東日本大震災の時の津波を実際に経験した人は勿論、その津波が押し寄せるテレビ放映を観た人も、すべてをのみ込み、破壊していく津波の恐ろしさに驚き、私たち人間の無力さを思い知らされたに違いありません。あんな破壊と混乱を前にしたら、何をやっても駄目だという無力感と虚無感に、私たちはさいなまれてしまいます。

 

  • 地震津波のような自然現象とは違って、気候温暖化による自然の破壊も深刻になっています。

 

  • 創世記1章2節「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。関根訳では「地は混沌としていた。暗黒(やみ)が原始の海の面(おもて)にあり、神の霊風が大水の面に吹きまくっていた」です。

 

  • この2節は、天地創造においてこの世界に秩序をもたらす神賛美の言葉ではありません。むしろ神賛美とは真逆の現実である「地は混沌としていた」ことを言い表わしています。

 

  • 今お話しした社会と自然と自分自身を否定的に空しく、私たちが思ってしまうのは、この「地は混沌としていた」ということに関わっていると考えられます。神の創造を賛美して、喜んで生きられない、生きることが空しくなってしまう私たちは混沌のとりこになっているのではないでしょうか。

 

  • 関根正雄さんは、この創世記1章の1節と2節の関係をこのように語っています。

 

  • 【創造の信仰とは一節にあるように神賛美である。人間は神賛美に生きるべきである。/そのことを2章4節前半までで、みな言っている。一節だけについて言っても、人間のあるべき姿は、神賛美である。しかし神賛美というものを脅かすところの混沌というか、空しさというか、無と言ってもいいでしょう。それが人間の側に罪としてある。そういうものがわれわれを絶えず脅かしている。あるいは、この世界を絶えず脅かしている。その重荷をわれわれは現在深く負っているわけです。わたしは新聞を読んで、そういう意味での、自分の罪と直結しないような新聞の読み方はできません。そういうことをくぐり抜けて、それこそ世俗の中で、本当に生かしめる力、それは、十字架の救い以外にないということです。そのことをわたしは言っているのです。/・・・具体的に言うと、一節と二節の関係は、現代の問題としてはそういう問題なのです】

 

  • 創世記1章1節の神賛美と混沌による空しさの狭間で、私たちが神賛美に生きうるとしたら、それを可能とするのは、【キリストの贖いであり、キリストの義であるということ、キリストの聖さであるということ。そしてそれに応じてもちろん、われわれは現代に向かって福音を語らなければならないし、現代ではやはり、具体的にはそれぞれの人の決断として、直接あるいは間接に、政治的なものをも媒介にして、福音を持ち運んでゆかなければならない。けれども何より大事なことは、自分がキリストの死と生命を、この体に持ち運ぶというパウロの言う、そういうことなしに、何をやっても空しいというのが、わたしの言いたいことです。だから何もしないでいいということではないと言っているのですが、その辺が、なかなか理解されないというわけです】。そのように関根正雄さんは言っているのです。

 

  • 今私たちも、混沌としか思えない現代社会の現実に直面して、何をやっても空しいという感覚に落ち込んでしまいがちではないでしょうか。そして目先の気晴らしを求め、その時その時をやり過ごしていく。そういう生活に落ち込んでいはしないでしょうか。

 

  • そのような混沌への落ち込みという危険性を十分意識して、その危険性に抗って神賛美に生きる道を、イエスの後に従って生きていきたいと、心から願います。どうか主がそのような道に私たちを導いて下さいますように。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。今日も教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。来週の日曜日からは、コロナウイル感染に十分気を付けながら、会堂での礼拝を再開するように予定しています。来週からの会堂での礼拝を、どうぞ守り導いて下さい。
  • 神さま、今日は創世記の冒頭の箇所から、本来私たち人間は、神を賛美して生きる者として、神によって創造されたことを示されました。けれども私たちの罪がつくり出すこの現実の世界の混沌という暗闇の中で、私たちは神を賛美して生きるのではなく、呟きながら、虚無的に生きてしまいがちです。どうかこの混沌と虚無に打ち勝って、神賛美の生涯を歩まれた十字架のイエスに従って、私たちもこの現実世界の中で神賛美を貫いて生きて行けますようにお導きください。
  • 昨日2月に引き続き、宮城県沖で10年前に起きた東日本大地震の余震と思われる大きな地震がありました。その地震によって怪我をした人々、不安の中にある人々を支えてください。また、21日をもって首都圏の緊急事態宣言が解除されました。国や自治体によるコロナウイルス感染防止の適切な対策が行われると共に、私たちも感染防止対策を可能な限りして生活することができますようにお導きください。このコロナウイルス感染拡大の中で、生活が困窮している方々、エッセンシャルワーカーに携わっている方々を支えてください。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌    423(人がこの世界に)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-423.htm

 

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。