「イエスの十字架」 ヘブライ人への手紙10:1-10、2015年3月29日(棕櫚の主日)礼拝説教
・教会歴では、今日は棕櫚の主日です。イエスがエルサレムに入城した日とされています。ですから、今日
から受難週です。
・私達の中には、今日本でも世界でも人々はいろいろな苦しみに出会っていて、この世界がとんでもない状態
になっていることを嘆いている人が多いのではないでしょうか。つい最近でも、日本人も関わる二つの事件と
事故がチュニジアとフランスで起きました。チュニジアの首都チュニスで今月18日に起きたテロ事件では、
武装した男たちが博物館を襲撃し、日本人3人を含む外国人観光客など合わせて21人が殺害されました。24
日にフランスで起きたドイツ航空会社の飛行機事故では、副操縦士の意図的な行為ではないかと言われていま
すが、150人の搭乗者全員の命が絶望的であるとされ、その中に2人の日本人がいると言われています。東日本
大震災のような自然の営みが原因となって、私達が苦しまなければならないだけでなく、地中海クルーズのよ
うな観光旅行に参加した人々が、また、仕事や観光で飛行機に乗った人々が、同じ人間が起す事件や事故によ
って命を失ってしまう。そういう世界に私たちは、今生きているということです。
・パレスチナのガザではパレスチナ人が今も命の危険にさらされながら厳しい生活を余儀なくされています。
民族間や国家間の紛争によって、また政治的な弾圧によってどれだけ多くの人々が、今も生命の危険を感じな
がら日々の生活をしているか。そして、絶対的な貧困の中で命を失っていく子どもたちや大人たちは、今も世
界には沢山います。
・フクシマや沖縄の人々を切り捨てて、原発再稼働や基地建設を強行する日本政府の政策によってどれだけ多
くの人々が苦しんでいることか。生活保護を受けざるを得ない人々のような社会的弱者がどんどん生き辛くな
っているこの日本の国はどうなっているのでしょうか。
・もし神さまがいるとしたら、人びとの命と生活を奪うことによって成り立っているこの今の世界を、私達の
この社会を神さまはどのように御覧になっているのでしょうか。創世記には天地創造の後、「神は、これを見
て、良しとされた」(創世記1:25)と言われています。また自然の創造だけでなく、人間を創造されたことも、
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)と言われ
ています。天地創造と人間創造の直後には、このように「神はそれを見て、良しとされた」というのですが、
現在の世界や人間を神さまは見てどう思われるでしょうか。
・創世記を読んでいきますと、6章の9節からはじまるノアの洪水物語の前のところにこういう言葉があります。
「主は(これは神はということ)地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧に
なって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。『わたしは人を創造したが、これ
を地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も、わたしはこれを造ったことを後悔する』
」(6:5-8)と言われています。もしも今も神がこのような方だとするならば、現在のこの世界と人間の現実を
見て、この世界に広がった悪を見て、人間とこの世界を造ったことを悔いているのではないでしょうか。
・創世記の物語では、人間の悪を見て、人間を造ったことを悔いた神は、ノアとその家族及び七つがいの清い
動物と一つがい清くない動物を箱舟に入れるようにしました。そして洪水を起し、箱舟に乗ったノアの家族と
生き物以外の人間や生き物すべてを滅ぼしました。洪水による水が引いて、箱舟からノアの家族や生き物が大
地に出たとき、ノアは先ず祭壇を築いて神を礼拝します。その時ノアは祭壇に焼き尽くす動物の犠牲ささげま
した。「主(神)は宥めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすます。人
が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二
度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない』
」(創世記8:21,22)と言われています。つまり神はノアの洪水後に、二度と再びこのようなことはしないと
自らに誓ったというのです。そして神はノアとその家族を祝福して、「わたしがあなたたちと契約を立てたな
らば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも
決してない」(創世記9:11)と約束し、虹をその契約のしるしとすると言います。「雲の中に虹が現れると、
わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留め
る」(創世記9:16)と。
・ノアとその家族との間に結んだ神のこの永遠の契約によって、神は自らが創造した人間の悪を見ても、人間
と世界を滅ぼすことはしないと、聖書は言っているのです。そしてアブラハムを選び、イスラエルの民と契約
を結び、神は律法を与えます。イスラエルの民を通してすべての人々を救うためです。しかし、律法によって
は、私たちは救われませんでした。そのことは、パウロもローマの信徒への手紙6章、7章で詳しく語っていま
すが、先ほど読んでいただいたヘブライ人への手紙10章1節以下でも、律法によっては、人間は罪から解放さ
れないことが述べられています。
・「いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、
律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。
もしできるとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、
いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。ところが実際は、これらのいけにえによって年ご
とに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです」(ヘ
ブル10:1-4)と。ここには、律法による礼拝、つまり犠牲獣をささげられることによって行われるイスラエル
の祭儀によっては、神に近づく人たちを完全な者、すなわち神を愛し、隣人を自分のごとく愛する人間にする
ことはできなかった。いくらいけにえを献げても、罪の記憶がよみがえってきて、罪を取り除くことはできな
いからだというのです。
・互いに助け合い、支え合って共に生きていくことによって、神の愛を証言する者として造られた人間が、お
互いに奪い合い、殺し合っているのは、私たちが神をないがしろにして自己中心的に生きてしまっているから
だと、聖書は語っているように思います。その人間が作ってきた今日の世界大の社会によって、かけがえのな
い命と生活が脅かされ、奪われている人たちが沢山いるのです。
・ヘブライ人への手紙の著者は、イエスの十字架の出来事を祭儀に譬えて、「ただ一度イエス・キリストの体
が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです」(10:10)と言っています。律法による祭儀
(礼拝)によって神に近づこうとしても、「完全な者」(=「聖なる者」)、つまり互いに愛し合う者にはな
れないが、イエス・キリストの十字架による犠牲によって、私達は聖なる者とされたと言うのです。ヘブライ
人の手紙の著者は、イエスの十字架を、「ただ一度イエス・キリストの体が献げられたこと」と言って、あた
かも犠牲獣を献げるように、イエス・キリストの体が供え物として献げられたかのように記しています。その
ことによって、「わたしたちは聖なる者とされた」と言うのです。
・このヘブライ人の手紙の著者によるイエスの十字架理解は、歴史的なイエスの十字架の出来事を語っている
のではなく、そのイエスの十字架の出来事の意味を、旧約聖書の祭儀と関連付けて語っているのであります。
ある意味で、贖罪論に近いと思います。イエスの十字架は私たちの罪を赦す出来事で、私達はイエスの十字架
による贖罪の出来事によって罪赦された者であるという理解です。
・律法による礼拝では、罪を取り除くどころか、礼拝するたびに罪の記憶がよみがえって来るのですが、「た
だ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです」と。このこと
は、弱い立場の人の命と生活を奪う的を外した顕著な人間の営みが、世界大になっている現代を生きる私たち
にとって、何を物語っているのでしょうか。
・神はこの現実をただ悔いて悲しんでいるのではなく、既にイエスをこの世に遣わして、人間変革の道をつけ
ていてくださるということではないでしょうか。イエスの十字架は的を外した人間によって引き起こされた犯
罪ですが、その人間の犯罪を引き受けて十字架にかかることによって、イエスはその人間の犯罪に死を告げて
いるのではないか。「ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされ
たのです」とは、イエスの十字架によって、律法による礼拝では得られなかった人間の変革、的を外した罪か
らの解放を得て、私達が清められ、聖なる者、つまり互いに愛し合う存在に変えられているのだというのでは
ないでしょうか。
・現実のこの世界の悲惨や不条理を嘆くことはやむを得ないかも知れません。しかし、現実を嘆くだけでは何
も生まれてこないのも事実です。神がイエスを私たちの中に遣わしてくださり、十字架に極まるその道行にお
いて、「ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです」と
の御言葉を噛みしめたいと思うのであります。ヘブル人への手紙の著者は、「信仰とは、望んでいる事柄を確
信し、見えない事実を確認することです」(11:1)と語っています。このヘブル人への手紙の著者によれば、信
仰をもって現実を生きるとは、人間が造り出す現実の世界に翻弄されるのではなく、神の約束に希望を託して
生き抜くことであります。11章10節では、「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ
都を待望していた」と記されています。ヘブル人への手紙の著者が言うように、そのような神の約束に希望を
託して信仰をもって生き抜いた信仰の証人に私たちは囲まれているのだから、「すべての重荷や絡みつく罪を
かなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成
者であるイエスを見つめながら」(12:1,2)。私たちも自分に与えられている課題に向かって、一歩一歩前進
していきたいと願います。