昨日は、午後神の庭サンフォーレ秦野に足立梅田教会時代の信徒の方のお別れ会があり、連れ合いと出
席しました。1974年3月まで、約6年間在籍しました足立梅田教会の信徒の方も十数名出席していましたの
で、お別れ会の前後の時間に懐かしい話に花が咲きました。私が26歳から32歳まで、連れ合いが24歳から
30歳まで、その間私たちには3人の子どもたちが与えられました。その頃足立梅田教会は、私が主任担任
教師として招かれましたが、教会の創立以来自宅の1階を開放して教会活動を続けておられた、今まで出
会った牧師の中では私の最も尊敬している故藤村靖一先生が実質的な牧師でした。藤村先生は終生補教師の
ままでしたので、当時足立梅田教会で洗礼志願者が出た場合、クリスマスに浅野順一先生を渋谷のご自宅
に迎えに行って来ていただき、洗礼式と聖餐式を年1回行ってもらっていました。我が家の3人の子どもた
ちは皆浅野順一先生から幼児洗礼を受けています。
足立梅田教会の牧師になるきっかけは、東京神学大学時代に私と友人の二人で数名の先輩が始めた足立区
本木町の隣保館の集会を引き継いで、1965年ごろから週一回隣保館に来ていて、ある夏隣保館に来ている廃
品回収業の「バタヤさん」の廃品回収の仕事を体験しようと、足立梅田教会の藤村先生を訪ね、夏期伝道実
習としてお願いしたことにあります。そのことがきっかけで、藤村先生との交流が生まれ、東京神学大学を
出た後足立梅田教会に招かれることになったわけです。この夏期伝道実習のために藤村先生は、足立梅田教
会の信徒の家の一室を私たち二人の神学生のために頼んで借りてくださいました。私たちは、その部屋に一
夏住んで、朝五時ごろに起きて、「バタヤさん」と一緒に行動を共にさせてもらいました。私たちが一緒さ
せてもらった「バタヤさん」は、当時大八車で尾竹橋から町屋方面のゴミの集配所にある金目になる物を拾
ってきて、仕切り屋さんに買ってもらって、その日の糧にしていたのです。住まいは仕切り屋が提供してく
れる劣悪な長屋の一室でした。この夏期伝道実習の時に、家の部屋の一室を貸してくださった信徒の方も、
昨日のお別れ会に見えていました。当時を偲んで懐かしくいろいろな話をすることができました。
いろいろな機会に話したり書いたりしていますが、この本木隣保館と足立梅田教会の約10年の経験が、そ
の後の私の歴史に決定的な意味を与えてくれたと、私自身は今でも思っています。
さて、今日は、その足立梅田教会の月報から、「エレミヤの信仰」(2)を掲載します。今船越教会の礼
拝ではエレミヤ書を扱っていますので、多少重複するところがあるかもしれませんが、45年前にこれを足
立梅田教会の月報に掲載した私の思いを汲んでいただければ幸いです。
(聖研:「エレミヤの信仰」その1、(足立梅田教会月報1971年6月号より) 2015年3月15日ブログ掲載)
聖書研究「エレミヤの信仰」(2) 足立梅田教会月報 1971年7月
エレミヤの時代
預言者は時代の人です。ですから、エレミヤの預言を理解するためには、彼の活動した時代を知らなけれ
ばなりません。
エレミヤの公の活動は、前625年~586年の40年間に渡ります。その時代的背景を概観しましょう。
.茱轡箘柄亜△垢覆錣船泪淵擦了?紂687-642)は、マナセがアッシリヤの主権者に追従したことによ
って、アッシリヤの宗教的慣習がユダに流れ込み、ヤハウェ宗教は異教化して宗教的、道徳的堕落が蔓延し
ました。反面、強国アッシリヤにつくことによって、ユダは戦争の恐怖から免れ、一見平和な時代でありま
した。ヨシヤの時代になると(640-609)、周囲の国々の情勢が急激に変化し、強国アッシリヤは弱体化して
バビロニヤとメディアが625年に独立、エジプトの復興、スクテヤの侵入(630-624)等が起こりました。ヨシ
ヤも621年、神殿から発見された申命記律法を基にして宗教改革を断行し、事実上アッシリヤから独立を達
成しました。
◆,靴し、ユダの独立は短く、609年のヨシヤの死をもって終わります。ヨシヤはアッシリヤ援助のため
に進軍して来たエジプトのパロ・ネロとメギドで戦って戦死してしまいました。このヨシヤの死は宗教改革
の挫折でもありました。その後一時は、ユダヤ自身によってエホアハズ(ヨシヤの子)がヨシヤの後を継い
で王に立てられましたが、すぐにエジプトの圧力によって退けられ、かわってエホヤキム(ヨシヤの子)が
エジプトの傀儡政権としてユダの王になりました。エホヤキムが王になると、急激にヨシヤの影響は衰え、
ついに消滅してしまいました。そして、完全にマナセ時代の異教的慣習に戻ってしまいました。エホヤキッ
ムはエジプトの傀儡政権として、ユダの国家主義的な独立運動を抑圧しました。また、人々が迷信へと誘わ
れるのを自由に任せました。605年にバビロン王ネブカドレザルがエジプトのパロ・ネコをカルケミシで破
ると、エホヤキムはネブカドレザルに屈服しました。しかし、598年貢をネブカドレザルに納めることを拒否
して、ネブカドレザルの軍隊に攻撃され、たぶんその時の戦闘においてエホヤキムは戦死したものと思われ
ます。その後、エホヤキムの息子エホヤキンは3か月の統治の後、エルサレムに到着したネブカドレザルに降
伏しました。この時が第一回のバビロン捕囚であります。上流階級はバビロンへ、最も貧しい階級ガエルサ
レムに残されました。エレミヤはエルサレムに残りました。
ネブカドレザルはヨシヤの三男マッタニヤを王座につけ、名をゼデキヤ(597-587)と改めました(列
王下24:17)。ゼデキヤはバビロニヤの傀儡政権。この時代の民衆の国家主義は大変激しく、それに並行して、
職業的預言者も勝利の未来を約束して精神をかきたて続けました。一部の人たちによってバビロニヤに対す
る反乱の計画も立てられましたが、実現しませんでした。また、貧しかったユダの民は、富裕な捕囚民のも
のであった土地や家を所有することによって成金となり、捕囚民を神に捨てられたもの、自分たちこそ神の
民であると考えていました。588年エジプトのパロ・ホフラ(アプリース)が即位の時にアジアに向けて遠征
隊を組織したとき、ユダもバビロニヤに対して反乱を起こしました。この反乱に対して、587年ネブカドレザ
ルの軍隊はエルサレムを攻囲し、ついに滅ぼし、第二回バビロン捕囚となります。ユダの国はバビロニヤの
一州となり、最初の統治者としてゲダリヤが立てられました。ゲダリヤは神殿焼失後2か月で、イシマエル
(ダビデの子孫の熱狂家)によって殺されてしまいました。この時、ネブカドレザルの復讐を恐れて、ユダ
の一団がエジプトに逃れました。エレミヤはこの一団の人々によって強制的に同行させられ、たぶんその後
まもなくエジプトで死んだのだろうと言われています。
以上がエレミヤの時代です。時代を三つに分けましたが、それは、エレミヤの活動がそれぞれの時期に並
行して3期に分けられるからです、簡単ですが、エレミヤが如何に激しい時代を生き抜いたかを少しでも理解
してもらえれば、と思います。
エレミヤの活動
第一期 召命(627)からヨシヤ王の宗教改革(621)まで。この期の預言は主として、異教化したヤハ
ウェ宗教とその道徳的堕落に向けられました。
第二期 エホヤキムの治世。この期のエレミヤの活動の著しい点は、国家権力との地決であり、偶
像化しつつある当時の神殿に対する戦いでありました。
第三期 ゼデキヤの治世。この期のエレミヤの活動は主として、職業的偽預言者との対決にありま
した。
詳しくは、テキストを学ぶ中でみてゆきたいと思います。