なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

創世記1章から11章による説教(2)

3月28日受難節第6(棕櫚の)主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。(イザヤ書55:6,7a)

③ 讃美歌    152(みめぐみふかき主に)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-152.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編118編19-29節(讃美歌交読詩編130頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  創世記1章26-28節(旧約2頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  58(み言葉をください)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-058.htm

説教     「神に似姿」(人間の創造Ⅰ)  北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 人間の創造について、創世記には二つの物語があります。一つは、今日の箇所である1章26-28節です。もう一つは2章7,18-25節です。この二つの人間の創造の物語は、資料が異なっています。創世記は複数の資料に基づいて編集されて作られていますので、二つの資料の異なった人間の創造の物語が記されているのであります。

 

  • そこで今日は1章26-28節の人間の創造物語が、何を私たちに語りかけているのかを、私なりにお話ししたいと思います。

 

  • 皆さんは、自分は何者であるとお考えでしょうか。もし自分が何者であるかを全く考えないで、本能と欲求の赴くままに生きるとすれば、私たちはある面で動物と変わりません。生物のとしての人間は哺乳類に属しますので、人間はまさに動物の仲間です。
  • 東浩之に『動物化するポストモダン』という本があります。2000年代初めくらいに出た本です。

 

  • ポストモダンという言葉は哲学思想分野ではよく使われていますが、みなさんにとっては、日常的にはあまり聞きなれない言葉ではないかと思います。ポストモダンの時代に関しては、様々な解釈が挙げられますが、一般的には、先進国に見られる、高度な資本主義経済と、高度な情報化社会で、そのような社会における、先行き不透明な現状と、その現状の中で社会等に絶望的感情を抱く状況を指します。

 

  • そういうポストモダンという時代、あるいは社会において、私たち人間は「動物化」しているのではないかと、東浩之は言っているのです。東は、「ポストモダン社会において、与えられたファーストフード化された消費財を動物みたいに食べる人間像」を指して「動物化」と言っています。

 

  • 連れ合いもがんになって召されるまでの1年半は、外に出て買い物をすることができませんでしたので、宅配の生協をはじめ必要なものを、ほとんどインターネットで購入していました。いろいろな物が、簡単に食べられるファーストフードのように、インターネット上に提供されていて、私たちはそれを買って必要を満たすわけです。その状況を、企業が付加価値を付けてみんなが欲しがりそうな物を次々に提供してくる、「与えられたファーストフード化された消費財を動物みたいに食べる人間像」を「動物化」として東は捉えているのです。

 

  • 今の時代や社会に生きる私たちには、そう言われてみると、確かにそういう一面があるように思うのです。もちろん、それがすべてではないのですが。

 

  • 「人間とは何者なのか」などと考えることもなく、ファーストフード化された消費財をパクパク食べて毎日生きている。実際、感覚的には、今はそういう人が多いのではないでしょうか。

 

  • 創世記1章1節から2章4節前半の天地創造物語の中で、他の動物と人間の違いが、今日の1章26節から28節の「人間の創造」の記事で書かれています。この記事には、「動物化された人間」ではなく、「人間化された人間」、そもそも人間とは何者なのかということが書かれているのです。

 

  • 26節前半を読んでみます。「神は言われた。/「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」。ここで神は自らを「我々」と言っていることで、聖書では神は唯一神なのに、「我々」というのはおかしいではないか、ということがよく問題とされます。しかし、この「我々」は複数の神を示すものではありません。「私」の強調語としての「我々」くらいに理解していただければよいと思います。

 

  • この26節前半からは、内容的に二つのことが言えると思います。一つは、人間は神によって造られた「被造物」であるということ、もう一つは、人間は「神のかたちに」、「神に似せて」造られた「神の似姿」だということです。

 

  • 神の「被造物」ということで、どのようなことが考えられているのでしょうか。

 

  • その前に、みなさんは毎日何に基づいて生きておられるでしょうか。聖書の神による人間創造について知らなかったり、何か宗教や呪術的なものを信奉していない場合、一般の人は、社会の法や慣習(因習)、自分の知識や感覚などに基づいて、自分が自分の中心・主体となって生きていると、言えるのではないでしょうか。

 

  • 人間が神の「被造物」と言う場合は、人間をつくったのは神で、人間は神に造られた存在なのです。

 

  • 陶器や彫刻にしても、絵画のような美術品にしても、その作品には作者の思いが込められていて、作品そのものは作者から離れてそこに存在しますが、作品は作者の表現を意味します。ですから、人間が神の「被造物」と言われる場合、私たちには神の思いが込められていて、私たちの存在は神の作品として神の表現を意味していると言えます。

 

  • 人間の主体は神で、人間は神の御業を表現している客体ということになります。

 

  • ところが、現実の私たちは、たとえ聖書の神による人間創造のことを知っていたとしても、神の表現者というよりは、自分が自分の中心・主体となって自己表現者自己実現者になっているのではないでしょうか。そのように生きることによって、私たちは神の被造物としての己自身を喪失してしまっているのです。

 

  • 秋田稔さんは、この神の被造性についてこのように語っています。

 

  • 【聖書でいっている被造ということの意味は、人間が先ず自分を尺度としてすべてを律することをやめて、神中心に生き、自分は一切を神に負うものにすぎないことを率直に認めることであろう。このことがわかることは、人間にとっては、その生活と思想の根本的方向転換を意味する。

一般に、人間が神を問題とするときには、結局は自分の側からみた神を問題にするのであり、人間を問題にするときにも、いわば自己理解の空転に終わるのであるが、この創造の信仰においては、神と人とは、全くその位置を変え、はじめて神が神としてあがめられ、人間はただ神の側からのみ自らを理解しようとするに至るのである。人間は、意志決断において自らの存在をうけとめるのであるが、人間を存在にまでよび出すのは神であり、その意味で先ず自らを被造的存在として自覚することが聖書における人間存在理解の糸口なのである】(『聖書の思想』)。

 

  • では「神の似姿」ということについては、聖書は何を物語っているのでしょうか。

 

  • 26-28節においては、この記者は、決して人間がどの点で神的であるかというようなことを論じているのではありません。この個所では、神が人間に地上の支配権を与えたことがしるされていますが、これは、神のかたちたる人間の尊厳の内容を示しているとみられます。人間の支配権が神のかたちという言葉であらわされていることは、人間の地上支配が、実は神の支配の代理あるいは代行であることを意味しているとみてよいでしょう。人間の尊厳は、神の尊厳にもとづき、それを表わすものです。人間は、神のよびかけにこたえて神の尊厳、神の栄光を表わすべく責任づけられ、使命を与えられたのです。

 

  • 地上を神に代わって支配するということは、開発ということで人間が勝手に用いていいということではありません。支配するという言葉の意味には、ただ支配するというだけでなく、羊飼いが羊を養うという意味もあると言われます。とすれば、地上を神に代わって支配するということは、私たちがこの地上である自然の秩序を整え、自然と共生することを意味するのではないでしょうか。

 

  • また、神のかたちに人がつくられたということは、誰か特別な人だけが神のかたちに造られたということではありません。この聖書箇所の記者はイスラエルの人たちがバビロニア捕囚期の時に、これを書いたと言われます。当時のバビロニア専制王国においては、王と人民は劃然とわけられていて、王の尊厳は高く立ちますが、人民は王の奴隷にすぎませんでした。しかし、この人間の創造物語では、この世の支配者は、あのバビロニアの王ではなく、神ヤㇵウェなのであり、地上の専制権力の奴隷からの民衆の自由、解放が、人間の尊厳の確立において、間接的に主張されているとみてよいでしょう。

 

  • このような見方においては、人間の僭越は徹底的に打破されているとともに、一方人間の尊厳が、謙遜にしかし責任をもって自覚されているのであります。人間は被造物にすぎませんが、しかし他の被造物と確かに異なっています。他の被造物が、つくられたということにおいて、神の栄光を表わしているのに対し、人間は、それにとどまらず、神の栄光を地上に表わすべく使命づけられていることに、その存在の意義がある、と言うのです。

 

  • 「男と女に創造された」と言われています「男と女」は、ここでは最初から「男と女」に造られ、性別を示しているだけです。しかし、2章の人間の創造物語は、最初に人であり男であるアダムが造られ、そのアダムのあばら骨から女が造られたと記されています。この2章の人間の創造物語には、男と女との間に序列を感じさせますが、一章の方には、それがありません。男も女も同じ神によって造られた存在であると語られています。

 

  • さて、私たち人間が、このような神の被造物として神の似姿に造られたという人間の尊厳を失って、自己中心的になると、私たちは動物化して、弱肉強食の社会を作り出して、お互いに奪い合い、殺し合う悲惨な現実を生み出さざるを得ません。現代社会の行き詰まりは、産業革命以後の近代から現代にいたる開発と競争の結果ではないでしょうか。

 

  • その意味で、今、私たちは、私たち自身の根本的な変革を求められているのではないでしょうか。もしその変革を遂げることができないとすれば、非民主的な社会の中で、地球温暖化による自然環境の破壊を止めることができず、人類の滅亡に至らざるを得ないでしょう。
  • だからこそ、今、私たちは、「神に常に新しく、私たちに、あなたのかたち、あなたの似姿に造られた者として、そのすばらしさを見ることによっていつも満たされることになる開かれた輝く目を与えて下さい」と祈らなければなりません。その開かれた輝く目もって、神に造られた人間らしく生きていきたいと、切に願います。

 

祈ります。

  • 神さま、今日は久しぶりに会堂での礼拝を再開することができ、感謝いたします。けれども、緊急事態宣言は解除されましたが、コロナウイルス感染者の拡大が各地に見られます。私たち一人一人が十分な感染防止に努めると共に、コロナウイルス感染拡大を防ぐ適切な対策が政府や自治体によって行われますように。またコロナウイルス感染拡大により困難を覚えている方々への適切な支援がなされますように。
  • 今日は棕櫚の主日で、イエスエルサレムに入城した日です。これからの一週間は受難週です。この一週の日々、イエスの受難と十字架の苦しみを想い起し、自らを振り返りつつ、過ごすことができますようにお導きください。
  • 神さま、今日は私たち人間とは何者なのかについて、創世記の1章の方の人間の創造物語から、その語りかけを聞きました。あなたのみ栄を表わすべく造られた私たち人間が、それを踏みにじって、いかに自分勝手生きているかを、世界の状況や日々に起こるさまざまな出来事を通して思わされています。神さま、どうか私たちに、あなたによって造られた者として、それにふさわしく生きる力を与えてください。そのために、私たち一人一人に、あなたのかたち、あなたの似姿に造られた者として、そのすばらしさを見ることによっていつも満たされることになる開かれた輝く目を与えて下さい。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌    223(造られたものは)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-223.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。