なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

[うめき」永眠者記念礼拝説教

    「うめき」 ローマの信徒への手紙8章18-30節 2014年11月2日永眠者記念礼拝説教

・今日は永眠者記念礼拝です。この船越教会に関わりのある方で、既に天に召された方々の事を覚えて、

私たちはここに集まり追悼の礼拝を持とうとしています。既に天に召されているここに写真のある方々は、

死者たちの仲間に加わっているということができるのではないでしょうか。今日はここに写真でいる方々

のことだけではなく、さまさまな死者たち、特に無念の死を遂げて、今も大地の底からうめき声を上げて

いるのではないかと思える死者たちのことも考えながら、この永眠者記念礼拝を守りたいと思います。

・2011年3月11日の東日本大震災でお亡くなりになった方々で、今も遺体が見つかっていない人が何人もい

ます。本年2月10日現在で警察庁調べでは2636人の方が行方不明者で、まだ遺体が見つかっていない方々で

す。つい最近では、御嶽山の噴火によって亡くなった方の中に、まだ少なくとも7名の方の遺体が見つかっ

ていないと言われています。この二つは自然災害ですが、かつての日本の侵略戦争によって戦地で死んで

いった人々、その戦争で日本軍によって被害者として殺されていった人々、沖縄の地上戦で亡くなった人

々、或は炭坑の事故で地中深く埋まって亡くなって行った炭鉱労働者たち、数えきれない人々の叫び、う

めきが、この私たちが住んでいる大地から今もあげられているのではないでしょうか。

紅葉坂教会時代に九州の筑豊炭鉱の地域にある直方教会の牧師をしていたHさんを招いて話を聞いたこと

があります。その日の説教の中で、Hさんは、筑豊の炭田の地域を歩いていると、大地から叫ぶ声が今も聞

こえてきて、筑豊ではその叫び声に耳を傾けながら生きているという趣旨のことをおっしゃっていました。

・今日の聖書の箇所には、直接にそういう死者たちのうめきということが記されているわけではありませ

んが、この短い箇所に3度も「うめき」という言葉が出てきます。

・ 22節に、<被造物(この世界の万物)がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わって

いることを、わたしたちは知っています>と言われています。■横垣瓩砲蓮◆稟鐶なだけでなく、“霊”

の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめ

きながら待ち望んでいます>。と言われています。そして、 26節には、「同様に、“霊”も弱いわたし

たちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せない

うめきをもって執り成してくださるからです>とあります。

・一番目の被造物のうめき、つまり、この世界全体、人間も動物も自然も「うめき」ながら産みの苦しみを

しているというのです。女の方で子どもさんを出産された方は、その出産の苦しみを体験されていますから、

この表現の感じをからだで理解できるのではないでしょうか。新しい命を生むために苦しむ妊婦の苦しみを

想い起こしてみると、世界全体が新しい命に生まれ変わる、その過程で、陣痛のようにうめき苦しんでいる

というのです。国と国、民族と民族の戦争が繰り返し行われたり、人間の豊かさの追求のあまり自然や生態

系の破壊によって、この神によって造られた世界が傷つき、苦しんでいる現代の世界を思いますとき、新し

くそのような破壊の無い平和な世界に生まれ変わるために、産みの苦しみを続けているという比喩は、決し

て荒唐無稽なことではないでしょう。

・そしてさらに、この自然世界のうめきに続いて、「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたし

たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいる」

(23節)というのです。ここで「霊の初穂をいただいているわたしたち」と言われていますのは、イエス

キリストを信じる信仰者のことです。ですから、この神に造られた自然世界も信仰者もうめきながら、新し

いまことの世界と人間に完全に変えられることを求めて、この破壊に満ちた世界と悪を内にかかえている私

たちの中で、うめき苦しみ、もがきながら待ち望んでいるというのです。そのことに神ご自身も共鳴してく

ださり、共にうめきながら一緒に苦しんで、執り成してくださるというのが、“霊”のうめき、つまり神

のうめきです。

・わたしたちと共にうめく神は、高見からこの世俗の世界に生きる私たちを見下ろす方ではなく、私たちと

同じ地平に立って共にいてくださるとともに、そのような私たちのうめきに共感してくださり、新しくなる

その希望を確かなものにしてくださる方であるというのです。みなさんの中には、神は全知全能で、オール

マイティーであって、その神が私たち弱い人間と同じようにうめくなどということがあろうはずがないと思

われる方もかも知れません。そしてうめくような弱弱しい神など信じて何になるのかと思われる方もあるか

もしれません。けれども、福音書に記されていますイエスの生涯を想い起すときに、そのイエスが、ヨハネ

による福音書が語っていますように人となった神であるとするならば、私たちのうめきに共感し、わたした

ちと共にうめきながらとりなしていてくださる神を信じることができるのではないでしょうか。そのイエス

は十字架上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びながら権力者によ

って殺されていった方です。そして死んで葬られ、陰府にまで下った方なのです。

・そのようなイエスにあって神は私たちと共にうめく神であるというのです。このようなうめく世界は現代

の状況を物語っているように思われます。今日の世界には、未だ貧困と飢えによって苦しむ多くの人々(子

供たち)が存在します。内戦や戦争で苦しむ人々、経済的格差の広がりで苦しむ人々、そして基地や原発

故による不理不尽な苦しみを強いられている沖縄や福島の人々、うめきに満ちた世界の現実があります。そ

のような私たちのうめきに共感し、神も共にうめいてくださっているというのです。パウロは、さらに続け

てこのように語っています。「神は愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益

となるように共に働くということを、私たちは知っています」(28節)と。うめく神は、私たちと同じ現

実に立ちたもう方でありますが、同時に、私たちのいるところから、私たちを連れ出し、神のみ心にふさわ

しい形に変えてくださる方であるというのです。そして神がそのように私たちの味方であり、私たちのため

にありとあらゆる労苦と犠牲を、惜しまずに、私たちをとらえ、愛したもうとするならば、私たちは何物も

恐れる必要がないと言えるのではないでしょうか。たとえ死においてもと、この聖書は語りかけているので

す。

・「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あ

るものも、高いものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによ

って示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(38,39節)。

・神を信じる者は、この神の愛の勝利を信じているのであります。そういう意味で、どんな力も、「わたし

たちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」と言われ

ていることに、私たちは希望と慰めを与えられるのです。

・私たちの敬愛する既に召された方々を想い起し、その一人一人を偲ぶと共に、すべての死者たちと私たち

が、何ものによっても引き離すことのできないこの神の愛に包まれていることを信じ、多くのうめきに満ち

ているこの現実の世にあって、私たちもうめきつつうめきから解放される時の到来を待ち望みたいと思いま

す。その待望の中で神の愛にふさわしい平和な世界を造り出すために、命ある限り、私たち一人一人に与え

られている務めを果たしていきたいと願います。