なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(35)

2月20日(日)降誕節第9主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 

                            (ヨハネ3:16)             

③ 讃美歌   4(世にあるかぎりの)

  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-004.htm

 

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編147編1-11節(讃美歌交読詩編160頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙8章12-16節(新約284頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  470(やさしい目が)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-470.htm

 

⑨ 説  教    「うめきながら待ち望む」       北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 今日の説教題は「うめきながら待ち望む」とつけました。これは、今日の聖書箇所のローマの信徒への手紙(以下ローマ書)8章17-25節で語られています、信仰者であるキリスト者の現在の生の特徴を言い表しています。

 

  • パウロは、ローマ書8章12-16節で信仰者であるキリスト者は、神の霊によって導かれている、「アッバ、父よ」と呼ぶことの出来る神の子であると言いました。それを受けて、今日のローマ書8章17節では、≪子であるのであれば、また相続人でもある。すなわち神の相続人、キリストとともに相続する相続人である。…≫(田川訳)と言っているのであります。

 

  • 内村鑑三はこの個所について、神の子とされた者はキリストと共に神の相続人とされると言うが、然らば相続人として何を神から賜るのであろうかと言って、このように語っています。「嗣業は改造された宇宙万物である。神の子は改造された体を与えられて、改造された全宇宙を嗣業として受けるのである。これが神の子の特権であり栄光である。全宇宙を改造してこれを彼を信ずる者に与えようとするのが神の心である」と言って、8章32節を指示しています。この箇所を文語訳で見ますと、≪己の御子を惜まずして我ら衆(すべて)のために付(わた)し給ひし者は、などか之にそへて萬物を我らに賜はざらんや≫です。「萬物」は「ずべてのもの」(新共同訳)、「あらゆるもの」(田川訳)です。内村は、この8章32節を見よと言って、「万物と言う。我等は宇宙万物を神から賜ることを望んでいるか。我等の希望というのはどれ程の希望であるか。我等人間は実につまらぬ物を最大の望みとしているではないか。…人類は狭き地上における小地位、小名誉、小資材を得んために営々努力して神が全宇宙を与えんとして待ち給うに気がつかない。…神は小さき物を得て得意げに満足する人間を憐れみ給うのである。実に全宇宙を賜る光栄が人類の前にある事を知らずして、遥かに小さな地上の一得一失に悲喜哀苦する事の愚かさよ!」(少し口語訳にする)と言っているのであります。「改造された」とは「贖われた」を意味するものと思われます。

 

  • 内村は、このことが≪我々が(キリストと)ともに栄光を受ける≫ということで、パウロが意味した内容であると考えているのです。

 

  • パウロが私たち人間だけでなく、私たちの生存にとって不可欠な自然界の贖い、改造(内村)、虚無(≪滅びの隷属≫21節)からの解放を問題にしていることは、8章19節から22節で被造世界(田川訳)(被造物、新共同訳)について語られていることからも明らかです。

 

  • 創世記3章17節には、≪神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに。土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ」≫(新共同訳)と言われています。神の命令を破って、食べてはならないと神に命じられた木の実を食べた、罪を犯した人間のゆえに、大地は呪われたと言われているのです。神の呪われた被造世界の苦しみの原因は、人間の罪であると、この創世記の箇所は語っているのです。けれども、ローマ書では、≪すなわち被造世界は虚無に服せしめられたのだが、みずから欲してではなく、服せしめた方(=神)によってそうなったのである。それも希望へと向かって。≫(8:20、田川訳)と言われていて、被造世界の苦しみは人間の罪のせいだとはあえて明言せず、服従せしめた方(神)の意志によると言われています。

 

  • バルトは、被造世界(被造物)を自然界だけでなく、人間を含めて理解しています。<彼(パウロ)は19-22節で語る。キリスト・イエスにあるものは、すべてを変革する、将来の、神の栄光を待望することにおいて孤独であるのではなく、本来、同じような更新を迎えようとしている、全被造物によって取り囲まれているのである。しかし彼はさらに23節で語る。あがなわれることの嘆息は、まだ贖われていない外の世界の更新であるだけでなく、まさにキリスト者の事柄でもあり、実に、第一にキリスト者の事柄そのものである。19-22節で4回使われている「被造物」という表現は、新約の言語使用法によれば、第一に、そして何よりもまず、人間一般、福音をまだ聞いていないが、第一に聞くべきである人間性を意味している。しかし次に、もっと広げられた意味で、造られたもの一般、人間とその歴史を取り囲み、聖書の世界理解によれば人間のために造られた、人間によって支配されるために造られた、生命を持ち、また生命を持たぬ自然という意味でもある。まさにそれゆえに、パウロが語っていることにおいて第一に、神の創造の中心点としての人間を考えねばならぬことは当然であろう>と。

 

  • そして<そこ「人間」において、彼が創造全体について語っていることが把握される。被造物は――そのことを知っていようがいまいが――あこがれにも似た待望の状態の中にある。なぜなら、被造物は虚無に服せしめられているからであり、「滅びへの奉仕(滅びのなわめ)」の中に立っているからであり、言い換えれば、その業と企ての全体、その衝動と活動全体における生全体は常に塵と忘却を目指して走っているからであり、力と物質の持続全体も、その発展の継続全体も、その生成全体が決して存在や持続に至らず、常にただ、新しく滅びと非存在に導かれうるにすぎぬという事実を変えないからである。これはまことにその意志に反することだ。それが、死ぬことでなく生きることを願っているのは明らかなのに、その生全体によって常にただ新しく死なねばならぬのである。その上にのしかかっている滅びの必然性に抗するこの反抗意志の中にあって、被造物は――この場合も、そのことを知って言いようが、いまいが――あこがれにも似た、呻くような、22節の表現によれば、産みの苦しみの中に身もだえしているような、被造物なのである>。

 

  • ここ200年間に私たち人間が、戦争や工業化や開発などによって、どんなに深く自然界を傷つけているか、その結果気候危機をもたらしているわけですが、その傷ついた自然界の叫びを思うと、「産みの苦しみの中で身もだえしているような被造物」という言い回しが、身に染みて感じられます。パウロの時代とは比べようのないくらいに、被造物は産みの苦しみの中で、更新と回復を求めて、身もだえしているのではないでしょうか。
  • 20節、21節には、≪すなわち被造世界は虚無に服せしめられたのだが、みずから欲してではなく、服せしめた方(=神)によってそうなったのである。それも希望へと向かって。被造世界そのものもまた滅びの隷属から解放されて、神の子らの栄光の自由へと入る、という希望である≫(田川訳)と言われています。

 

  • ここには、被造物にとって、虚無への服従(死)が希望への服従(命)であるのは、虚無への服従(死)が神によるからで、神こそが死を命に変えてくださるかただからだと、言われているように思われます。産みの苦しみの中で、うめくことができるのも、被造物が死である滅びから、創造の更新と回復である滅びからの解放を信じることが出来るからではないでしょうか。

 

  • では、そのようなことがどこで起こるのでしょうか。神はイエスの十字架と復活によって私たちに、私たち人間を含めた被造物の死と再生を引き起こしてくださっているのではないでしょうか。

 

  • <人間を、また人間と共に全被造物を虚無に服せしめたのは誰なのか(20節)。パウロがここでも非常に単純にイエス・キリストのことを考えていたということを疑うのは、わたしには全く不可能のように思える。イエス・キリストは、われわれが繰り返し聞いてきたように、その死において、人間の終わりを告げしめ、人間に関する判決を語り、また遂行してこられたのである。そのことが起こったという点に、人間と共に、人間の全世界が悩むのである。ゴルゴダで人間とその全世界について、終わりの言葉が語られている。そのゆえに、人間にとって、またその世界において、〕どのような存在も」、持続も、もはや起こらないであろう。…それゆえに、目の届く限りは、ただ死すべき生があるのみである。それゆえに、被造物はその栄光全体をもってしても、今ここにおいては、まさにうめき、嘆息をつく…被造物以外ではありえないのである。しかし、服せしめられた方が、まさにイエス・キリストであるゆえに、問題は「望みに向かう」服従である(20-21節)。イエス・キリストにおいて神の子であるものがあずかる約束においてこそ、人間が、また人間と共に、全被造物が呻きをもって求めているものは何か、それに欠けているものは何か、それが虚無に服してことに対応する自由とは何か、が明らかにされる。イエス・キリストの死における神の裁きのもとにおかれる服従以外の服従がないように、神の子たちが共通の相続者として期待している神の栄光の自由以外の自由は存在しない。自由が乞い求められる場合なら、どこででも、またどのような仕方でも、それが空しく終わるということはない。かの裁きが全世界に行きわたることにより、この将来は全世界にも与えられ、その呻きに満ちた願望の成就、その苦しみの実としてのこのような誕生が、全世界に約束される。「被造物は滅びへの奉仕から解放され、神の子たちの栄光の自由にはいるであろう(21節)。従って、被造物は神の子たちと共に栄光が啓示されるのを待ち望む。神の子たちとその将来は、すべての人間、すべてのものが迎えようとしている将来に対する保証である(19節)。しかし、世界が神の子たちの希望にあずかるように、神の子たちも、全世界に行きわたる呻きにあずかる(23節)>(バルト)。

 

  • またバルトの引用が長くなりましたが、最後にヨハネの手紙一、3章1-3節を読んで終えます。≪御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。…愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、その時御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます≫(新共同訳)。

 

  • ≪すなわち、我々が救われたというのは、希望において、ということである。すでに見た希望は希望ではない。すなわち、見ているものを希望する人がいるだろうか。見ていないものを希望するのであれば、我々は忍耐をもって待ち望むのである≫(ローマ8:24,25、田川訳)。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日もまた、コロナウイルス感染拡大により、会堂での礼拝を持てませんが、メール配信による自宅分散礼拝を持てますことを心から感謝します。
  • 神さま、私たち人間も自然界も、今産みの苦しみの中に、呻きながらあることを思います。どうぞこの滅びと死に支配されているかに思える、私たち人間を含めた全被造物の再生が、あなたによって与えられますように、心から祈ります。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌      224(われらの神 くすしき主よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-224.htm 

 

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。