「命の神」エレミヤ書10:1-16、2016年1月24日(日)
・今日のエレミヤ書の箇所には、異国の偶像礼拝を批判、嘲笑すると共に、それに比べてイスラエルの神
ヤハウエこそ真の神であり、その神の創造の業を賛美し、ヤハウエの神こそ万物の創造者であり、イスラ
エルはその方の嗣業であることが強調されています。全体を読んでみますと、偶像と対比しつつ、イスラ
エルの神ヤハウエへの賛歌、ほめ歌のように感じられます。新共同訳聖書の表題も「偶像とまことの神」
となっています。
・ところで現代の非宗教的な社会にあっても、私たちの中には聖書では偶像と言われています様々な神々
があり、その神々を信じている人が多いという現実があります。宗教とは言えないかもしれませんが、受
験や出産を控えた人に、どこどこ神社の御札に効能があるということで、本人が買ったり、身近な人が買
って与えたりということが、今でも広く行われていますし、占いに頼る人も、私たちが考える以上に多く
いると言われています。そのような現実を生み出しているのは、私たち人間の中にある不安ではないかと
言われます。人間の不安が、その不安を解消してくれる様々な神信仰の宗教を信じ、あるいは御札を買っ
たり、占いに頼ったりするというのです。確かに私たちは様々な不安に直面したときに、思考停止をして、
何かに頼りたくなる者です。現代のようにさまざまな矛盾によって出口がなかなか見いだせない閉塞した
社会では、独裁者が現れ易いと言われますが、嘘であっても希望のもてる社会をこうすれば出来るのだと
いう政治家に人々は未来を委ねてしまうからです。なぜ安倍首相が首相でいられるのかと言えば、そうい
う面があるのではないでしょうか。
・今日のエレミヤ書の偶像批判はエレミヤのものではなく、むしろイザヤ書40章から55章に収められ
ている捕囚期の預言者第二イザヤの預言のものではないかと言われていますが、ここではこのエレミヤ書
の偶像批判の預言が、どのように偶像を批判しているかということに注目したいと思います。3節以下に
このように記されています。もう一度そこの部分(3-5節)を読んでみたいと思います。<もろもろの
民が恐れるものは空しいもの/森から切り出された木片/木工がのみを振るって造ったもの。/金銀で飾
られ/留め金をもって固定され、身動きもしない。/きゅうり畑のかかしのようで、口も利かず/歩けな
いので、運ばれていく。/そのようなものを恐れるな。/彼らは災いをくだすことも/幸いをもたらすこ
ともできない>と言われているのです。また、14節、15節ではこのように語られています。<人は皆、
愚かで知識に達しえない。/金細工人は皆、偶像のゆえに辱められる。/鋳て造った像は欺瞞にすぎず/
霊を持っていない。/彼らは空しく、嘲られもの/裁きの時が来れば滅びてします>と。この偶像批判は
極めて現代的な批判に思われます。偶像が何によって造られているかということが合理的・科学的に描か
れているからです。人々が神として礼拝している神像は、「森から切り出された木片を、木工がのみを振
るって造ったもの。金銀で飾られ、留め金をもって固定され、身動きもしない。きゅうり畑のかかしのよ
うで、口も利かず、歩けないので、運ばれていく」と。実に合理的、科学的なさめた目で、異教の像を捉
えているではありませんか。このことは、聖書の神信仰は決して人間の知を犠牲にしないということを物
語っているように思われます。ともしますと、人間の知を犠牲にする、神を信じる信仰と人間の知は相反
するような言われ方をする人がいますが、少なくともこのエレミヤ書の偶像批判の預言はそうではありま
せん。その見方は現代の科学的な見方そのものです。この偶像批判の中には宗教的なまなざしではなく、
現代社会の世俗的なまなざしが貫かれています。エレミヤ書のこの預言が語られ、書かれた社会は古代社
会であり、現代科学とは無縁の社会であり、神話的・宗教的な社会であったと考えられますから、エレミ
ヤ書にこのような偶像批判があるということは驚きそのものです。このエレミヤ書の偶像批判は十分に現
代社会にも通じる批判ではないでしょうか。
・この偶像批判に対して「まことの神」とは、どのような方なのでしょうか。10節にはこのように語ら
れています。<主は真理の神、命の神、永遠を支配する王>と。このところの岩波訳で読みますとこうな
ります。<しかしヤハウエは、真実の神、彼こそ生ける神、永久(とこしえ)の王>と。エレミヤ書の預
言では、この「まことの神」は、創造者であることが語られています。12節、13節には、<御力をも
って大地を造り/知恵をもって世界を固く据え/英知をもって天を広げられた方。/主が御声を発せられ
ると、天の大水はどよめく。/地の果てから雨雲を湧き上がらせ/稲妻を放って雨を降らせ/風を倉から
送り出される>と語られているのであります。関根正雄さんは、<人間は生まれながらにして宗教的であ
る。何時の時代でも人間は自分の内外に小さな神々を造り出す。それは人が真の創り主を知らず、その存
在の根底においてたえず不安だからである。創造者を知る者のみ、被造物の神秘のヴェールをはぎ、これ
を真に世俗的なものとしてその真相を看破しうるのである>と言っています。
・このすべてのものの創造者である神は、言葉と出来事をもって私たちに語りかけてくださる方でもあり
ます。偶像は、<木工や金細工人が作ったもの>(9節)であり、<霊を持っていない>(14節)<空し
いもの>(8節)であり、偶像によっては言葉も出来事も起こりません。偶像は、<人間が自己の存在の
不安を被造物に投影した>(関根正雄)だけにすぎません。聖書の神のように、言葉をもって私たちに語
りかけ、かく生きよと促し、その力を与えて下さる方ではありません。聖書の神でイエスの父なる神は、
万物を創造し、今もその創造の業を展開しておられる方です。死んだ方ではありません。生きた方です。
真をもって私たちに臨在し給う方です。イスラエルの民にとって神ヤハウエは、出エジプトの神であり、
モーセを通した契約を想い起させ、イスラエルの民が何よりも神の契約の民としてこの歴史の中を歩むこ
とを促す方です。言葉と業(出来事)をもって。そのような「まことの神」の言葉とその言葉によって引
き起こされる出来事に従って、私たちが思考停止することなく、考え、信じ、行動するときに、私たちは
「まことの人」、一人の真実な人間として生きることになるというのです。
・私たちには、「まことの神」と共に、その「まことの神」を信じ、「まことの神」に服従してその生を
貫いた「まことの人」でもあるイエスという方がおられるのであります。今日の船越通信に、教区のヤス
クニ・天王制問題小委員会の委員であるEさんが「神奈川ヤスクニニュース」に書いた「『国民』である
前に」と言う文章の一部を紹介して、それに対する私のコメントを書いておきました。遠田さんの問題提
起が大切なことを指摘していると思ったからです。遠田さんは戦時下の日本基督教団が教団として当時の
天皇制国家に絡め取られて、<「臣道」(天皇の赤子としての臣民の道)を語っていたという事実>を踏ま
えて、<いま、ここでキリスト者であるとは、「国民」である前に一人の「個人」であること、「教会員
」である前に一人の「個人」であることではないか。何らかの「権威」に我が身を委ねるのではなく、あ
るいは「和」に絡め取られるのではなく、「個人」として一人ひとりが考え、行動する者として。「あの
時」以来、わたし(たち)は「国民」である前に一人の「個人」であろうとすることへと、「招かれ」続
けているのではないだろうか>と問いかけています。
・神に命与えられた者として、私たちも「まことの神」と「まことの人」である主イエス・キリストに従
って、幼子のような神の子どもとしての感性とその素直さを失わずに、Eさんが言うように、<「国民」や
「教会員」である前に一人の「個人」として一人ひとり考え、行動する者でありたいと、切に願うもので
あります。