なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(60)

   「神の重荷」エレミヤ書23:33-40、2017年3月19日(日)船越教会礼拝説教

・今日のエレミヤ書の箇所は、33節と34節以下が読んでいて内容的なつながりが欠けているように思われ

ます。関根正雄さんは、《34節は33節を誤解して、総じてヤハウエのマッサーという語を用いるものは罰

せられるという。何故罰せられるか、35節以下はその理由づけである。生ける神の言を重荷だなどという

のはけしからん、それは神の言を曲げるものだ、というのである。このような言葉尻を捕えての屁理くつ

は後のユダヤ教の特長を示す》と言っています。また、ワイザーは、《33節に続く、この34-40節は、今

までとは別の水準であり、別の精神の息づかいをしている。その作者は、33節にある威嚇の理由を誤解

し、それをここで自己流に述べているのだ。それは、真のエレミヤのことばの、またエレミヤの神学的背

景の誤解以外の何ものでもない》と言って、やはり33節のエレミヤの預言と34節以下の後の人による付加

部分とを分けて、その間には内容的なつながりはなく、34節以下は内容的に「真のエレミヤのことばの誤

解」であると断定しているのであります。

・そこで今日は33節のエレミヤの真正の預言のことばにのみに焦点を当てて、そこから私たちに対する語

りかけを聞きたいと思います。33節をもう一度読んでみたいと思います。《もし、この民が(次の棒線で

囲まれている「預言者であれ祭司であれ」は、おそらく、34節にならった後の補足であろうと言われてい

ますので、この部分はないものとして読みなす。)あなたに、「主の託宣(マッサ)とは何か」と問うな

らば、彼らに、「お前たちこそ重荷(マッサ)だ。わたしはお前たちを投げ捨てる、と主は言われる」と

答えるがよい》。

・ここでは、ヘブル語のマッサという語が、「主の託宣」と「重荷」という二つの意味を持っているの

で、語呂合わせになっているのです。《もし、この民があなたに「主の託宣(マッサ)とは何か」と問う

ならば》と言われていますが、これは、イスラエルの民がエレミヤに主の託宣(=ことば)を求めたこと

を意味します。イスラエルの民はどのような状況の中で、エレミヤに主のことばの預言を求めたのでしょ

うか。「それは、エルサレムが包囲された時代、すなわち、エレミヤによって預言された出来事が次々と

起こって、王や民の間に尊敬が高まっていたエレミヤのもとに人々が援けを求めてやって来た時代のこと

ばであろう」(フォルツ)と言われています。このエレミヤの預言が語られたのは、バビロニアによるエ

ルサレム神殿の破壊とイスラエルの主だった人々をバビロニアに連れて行く時が迫っていた時代だという

のです。

・エレミヤは援けを求めて来た民に向かて、その求めを厳しくはねつけるかのように、《お前たちこそ、

神ヤハウエがかくも長い間背負ってこられた「重荷」(マッサ)に他ならない》と言うのです。エレミヤ

は、今やこの神の忍耐も終わりを告げ、神はこのやっかいな重荷を「投げ捨てられる」であろう、と言う

のです。何ということでしょうか。神は長い間ご自分の背中に背負ってきたイスラエルの民を、その背中

から投げ捨ててしますと言うのです。

・一方、イザヤ書46章3節、4節には、このように語られています。《わたしに聞け、ヤコブの家よ/イ

スラエルの家の残りの者よ、共に。/あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてき

た。/同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。/わたしは

あなたたちを造った。/わたしは担い、背負い、救い出す》。ここにも神がイスラエルの民を背負うと語

られています。けれども、このイザヤ書のこの箇所には、神が背負っているイスラエルの民を、「重荷」

として投げ棄てるとは言われていません。むしろ「老いる日まで、白髪になるまで」背負うと言われてお

り、《わたしはあなたたちを造った。/わたしは担い、背負い、救い出す》とまで言われているのです。

・このイザヤ書の箇所は、イザヤ書の40章から55章までに属していて、この部分のイザヤ書の預言は、バ

ビロニア捕囚時代に現れた第二イザヤという無名の預言者のものと考えられています。捕囚時代のイスラ

エルの民は、王国も神殿も滅亡し、王も大祭司のような権力者はいませんでした。おそらく長老に当たる

ような指導者と礼拝を司る祭司はいたでしょうが、国家や神殿支配という権力構造は失われて、バビロニ

ヤ帝国という権力構造の中で被抑圧者としての生活を強いられていたに違いありません。それでも同化せ

ずに、バビロニアの寛容な宗教政策もあって、ヤハウエ信仰による民族としての一体性を失わずに捕囚期

イスラエルの人びとは、自らの存在を根本から問い直し、旧約聖書の諸文書の編纂を通して、自らのア

イデンティティーを再確認していったのです。そのような捕囚期に現れた第イザヤは、捕囚の民に向か

て、預言の中で《わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。/わたしはあ

なたたちを造った。/わたしは担い、背負い、救い出す》と語ったのです。第二イザヤは、エレミヤが置

かれた状況とは、根本的に異なる状況でこの言葉を語ったのです。

・このイザヤの言葉と、今日のエレミヤの言葉の違いは、その時代と状況の中で神の前にイスラエルの民

がどのように生きているかの違いではないかと思われます。捕囚期の時代のイスラエルの民は、国家も神

殿も失って、出エジプトによるシナイ山モーセを介して取り結んだ神との契約と律法を想い起こし、そ

の神の契約の民として、神の下にあってお互いに命与えられた者として共に支え合い、助け合って生きよ

うとしたのではないでしょうか。そのような時に、第二イザヤが語るように、イスラエルの民にとって神

ヤハウエは彼ら彼女らを「担い、背負い、救い出す」近き神でありました。

・けれども、今日のエレミヤのマッサという語呂合わせで語られている預言は、第二イザヤのそれとは対

照的に、《機知に富んだ語呂合わせの背後には、仮借ない事実の厳しさがあります。辛辣な風刺をもった

この逆説論法は、神に狎れ狎れしく接近しようとする如何なる試みをも拒ける神の現実を示唆していま

す。アモスやイザヤに同様の逆説的なことばを語らしめた近づき難い神の尊厳を、エレミヤもまたよく

知っていたのであります》(ワイザー)。この時のイスラエルの民は権力と富に頼って神ヤハウエをない

がしろにしていたので、神に狎れ狎れしく接近して神に援を求められるような状態ではありませんでし

た。ですから、エレミヤは、長い間イスラエルの民を背負ってきた神ヤハウエは、その背中の重荷である

イスラエルの民を投げ捨てると言うのです。この時イスラエルの民は神に見捨てられるのが当然な状態

だったとのだと思われます。

・この対照的なエレミヤと第二イザヤの預言を思いめぐらしているときに、昨日私の支援会で講演してく

れた札幌北光教会信徒の一條さんの言葉が思い起こされました。一條さんはこのようなことを言われまし

た。「人間イエスにおいて神は罪のために本当に苦しまれた」。これは、十字架に極まる人間イエスの苦

しみにおいて、神は罪のために本当に苦しまれたということではないかと思います。また、一條さんは、

キリスト者は苦しみの中で神の傍らに立つ」とも言われました。これは、十字架に極まるイエスの苦し

みである神の苦しみに私たちキリスト者は連なるものとして召されているということを意味していると思

います。

・そういうことからすると、一條さんは今の教団執行部がすすめている伝道では、教会は自己崩壊してい

くのではないかとも言われていました。

・そのことを思う時に、昨日5か月も拘留されていた山城博治さんが保釈されましたが、私は沖縄の高江

辺野古で基地建設の反対運動をしている方々や、過大な基地負担によって苦しんでいる沖縄の方々の苦

しみの中に、十字架に極まるイエスの苦しみである神の苦しみが現れているように思うのであります。絶

対に人殺しである戦争につながる基地を造らせないと、平和を造り出すために闘って、その苦しみを担っ

ている方々の中に、日雇い労働や野宿者の苦しみの中に、その他様々な差別によって苦しまざるを得ない

人々の中に神がいるように思うのであります。

・昨年2月に私も関わっています「沖縄から基地撤去を求め、合同のとらえなおしをすすめる連絡会」が

沖縄で全国集会を行いました。その時沖縄の方からヤマトの私たちに厳しい問いかけがありました。沖縄

キリスト教団と日本基督教団が1969年に合同し、その合同が対等なものではなく、日本基督教団に沖縄キ

リスト教団が吸収合併されたものなので、その合同をとらえなおして対等な関係を築き直すということが

1970年代後半から、合同のとらえなおしとその実質化が日本基督教団の中で行われてきたが、2002年の教

団総会では、そのすべてを葬ったので、それ以来沖縄教区は教団との間に距離を置いているのです。私た

ちの連絡会は、そういう教団の執行部とは違って、沖縄との関係を再構築して、共にその重荷を担いたい

と願って活動を続けてきているのであります。しかし、昨年2月の沖縄での集会では、連絡会の私たちは

教団の執行部とどこが違うのかと厳しい問いかけを受けました。沖縄の話を聞くだけで、それに対するヤ

マトの私たちには応答の実がどこにあるのかと。沖縄教区は沖縄の将来教会の在り方を模索し始めていま

す。ヤマトのあなたがたも、自らの教会のあり様を自分たちの場で考えてほしいと。そのようなことを想

い起しながら、教会が他者の苦しみへの共感を失って、財政や人数のことばかり考えて自己目的な集団に

なってしまったとしたら、それはもう教会ではないのではないでしょうか。

・エレミヤの預言と第二イザヤの預言の違いは、そこにあるように思うのであります。神が私たちのこと

を重荷であると言って、いつまでもそのような重荷を背負ってはいられない。投げ出してしまおうと言わ

れるような者にはなりたくありません。第二イザヤのように、神が担い、背負い、救い出すと約束しても

らえるような者でありたいと思います。そのためには、「キリスト者は苦しみの中にある神の傍らに立

つ」ということを、心に銘記し、自分の生活の中でそのように少しでも歩んでいきたいと思います。