「どれが、幸いに至る道か」エレミヤ書6:16-21、2015年9月20日礼拝説教
・昨日未明に集団的自衛権の行使容認を認める安保法案が参議院の強行採決で可決されてしまいました。
安倍首相はこの法案の成立によって日本の国民の命と生活が守られる、これは積極的平和主義だと、繰り
返し主張してきました。しかし、この法案によって自衛のための戦争だけでなく、他国に対する戦争をア
メリカ軍と一体となって日本の自衛隊が行うようになっていくことになります。或はアメリカ軍に代わっ
て日本の自衛隊が前面に立つ事も起こらないとも限りません。その意味で、自衛の戦争はともかく、集団
的自衛権の行使容認による他国への戦争は憲法違反になるからと、そこで歯止めをかけてきた今までの政
府の立場を根本的に覆したことになります。
・この安保法案に反対して、国会前をはじめ各地で抗議行動している人たちは、「戦争させない」「9条
壊すな」を掲げ、叫んで反対しています。この「戦争させない」「9条壊すな」には、かつて日本の天皇
制国家が行ったあの戦争の経験から、絶対に戦争だけは再びしてはならないという反省の上に立って、そ
の代償として与えられた平和憲法、特に戦争放棄を掲げる第9条を、安保法案は壊すことになるので、絶対
に反対であるという主張が示されています。つまり安保法案は、私たちが幸いに至る魂に安らぎを得る道
ではないのです。
・エレミヤは、「さまざまな道に立って、眺めよ。/昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る
道か、と。/その道を歩み、魂に安らぎを得よ」(6:16)とイスラエルの民に語っています。「魂に安ら
ぎを与える道」については、イエスもこのように語っています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも
わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と人々に語った後に、「わたしは柔和で謙
遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしにまなびなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」
(11:29)と。
木田献一さんは、「真理を求めて誠実に歩む。そこには試行錯誤が伴い、大きな挫折の危険がない
わけではない。それが現実である。エレミヤ自身がどれほど大きな挫折や孤独を体験したことか。しかし、
これこそが真に《魂に安らぎを得》(16節)る道なのである」と語っています。試行錯誤が伴っても、真理
を求めて誠実に歩む。それ以外に魂に安らぎを得る道はない。エレミヤはこのように語っているのだと言
うのです。
・このエレミヤの言葉には、そのような魂の安らぎを得ることのできる道へと、私たち一人ひとりを招き、
呼び出す方がいて、私たち一人ひとりはその方に呼び出された者として、魂の安らぎを得ることのできる
道を歩んでいくのだということが前提とされています。先ほどのイエスの言葉には、イエスご自身が私た
ち一人ひとりを招いて、わたしのもとに来なさい、わたしの軛を負い、わたしに学びなさいと呼び掛けて
いるのです。
その意味で、私たち一人ひとりは、何よりも私たちの創造者である神により、そしてその神の御心
に従って歩まれた神の独り子イエス・キリストにより呼び出され、招かれ、神と共に、イエスと共に歩む
者なのです。少なくとも、エレミヤもイエスも、そのように私たち一人ひとりの人間を捉えていると考え
てよいでしょう。
・そのような預言者エレミヤの基本的な人間観に対して、イスラエルの民はどうだったのでしょうか。エ
レミヤと同じように、自分たちは神ヤハウエに呼び出され、招かれた一人ひとりなのだと信じていたので
しょうか。そしてその信仰に従って、神ヤハウエの呼びかけ、招きに従順に従って生きていたのでしょう
か。今日のエレミヤの預言の箇所を読みますと、イスラエルの民は、エレミヤが勧めた魂に安らぎを得る
ことのできる道を歩もうとはしませんでした。<しかし、彼らは言った。/「そこを歩むことはしない」
と。>、16節後半に記されている通りです。イスラエルの民は、神ヤハウエがイスラエルの民に見張りと
してつけた預言者の言葉にも従いませんでした。17節で<(主はこう言われる。)/わたしは、あなたが
たのために見張りを立て、/耳を澄まして角笛の響きを待て」と言った。/しかし、彼らは言った。/
「耳を澄まして待つことはしない」と>と言われている通りです。
・この見張りとしての預言者の言葉に、「耳を澄まして待つことはしな」かったイスラエルの民は、かつ
てモーセを指導者に立て、奴隷の地エジプトから脱出させてくださった神ヤハウエとシナイ山で契約を交
わし、神ヤハウエの契約の民としてのアイデンティティーを確認しました。そこでただ一人の神ヤハウエ
を大切にし、またお互いを大切にして、他者の命と生活を奪ってはならないという、人間を導く神の指示
であり働きかけである律法に従って歩む約束をしたのでした。けれども、このエレミヤの預言が語られた
時、南王国ユダではヨシヤ王の宗教改革によって、イスラエルの民は政治的国家への期待を持ち、ヨシヤ
王がイスラエルを守ってくれるという大国主義に酔って、角笛の響きに<耳を澄まして待つことはしない
>というのであります。つまりエレミヤは、イスラエルの民は神との契約の民としての自らのアイデン
ティーを、どこかに置き忘れて、王国の維持と発展に期待して、イスラエルが神の契約の民としてしっか
り歩んでいるか否かを見張っている預言者の勧告を聞く耳を持たないと言っているのです。その結果、イ
スラエルの民はどうなるのでしょうか。
・18節、19節にこのように記されています。<それゆえ、国々よ、聞け。/わたしが彼らにしようとする
ことを知れ。/この地よ、聞け。/見よ、わたしはこの民に災いをもたらす。/それは彼らのたくらみが
結んだ実である。/彼らがわたしの言葉に耳を傾けず/わたしの教えを拒んだからだ>。この「教え」と
訳されている言葉はトーラーです。「律法」です。イスラエルの民は、神との契約の民として最も大切な
トーラー、神の指示に従って生きる道を拒んで、王国という大国主義に魅せられてしまったというのです。
その結果、彼らのたくらみが結ぶ実として災いがもたらされると言うのです。
・また、ヨシヤ王の宗教改革によって、地方聖所が廃止され、神礼拝としての祭儀はエルサレムに集中し
ました。エレミヤは、20節でその祭儀批判をしているのです。<シェバから持って来た乳香や/はるかな
国からの香水萱が/わたしにとって何の意味があろうか。/あなたの焼き尽くす献げ物を喜ばず/いけに
えをわたしは好まない>と。<そもそも、ヤハウエ宗教においては、供犠は仮にあったとしても、後代考
えられたような中心的意義をもっていませんでした。契約祭儀の中心は、あくまで、神の行為としての神
との契約であり、神の救済史であって、これを通して神は神の民を自らに結びつけるのであります。とこ
ろが供犠中心の宗教においては、逆に人間が神に贈り物をすることによって、神の恵みを人間に強制しよ
うとするのです>(ヴァイザー,ATD185頁、少し言い回しを変えている)。
・本来祭儀は神に仕える会衆による礼拝なのですが、いつの間にか逆転して、神を人間に奉仕させようと
するものに変質してしまったというのです。人間のたくらみが優って、その言葉と教えをもって、本来人
間の歩みを一歩一歩導く神の働きかけに従って私たちが歩むのではなく、神に対応する宗教という組織や
体系を造り出して、それが神の求めていることと思ってしますのです(木田献一)。
・これはヤハウエ宗教が持っている倒錯ですが、ヤハウエ宗教だけではなく、初代教会にも起こっていま
した。イエスの十字架と復活以後誕生した教会は、時間の経過とともに再ユダヤ教化したと言われていま
す。イエスによってヤハウエ宗教の倒錯から、再び神のみ旨に従って生きるイエスに倣って歩み始めた最
初期の弟子集団は、時が経つと共にキリスト教という組織や体系を造り上げていき、再ユダヤ教化の落と
し穴にはまってしまったという面があるのです。そのような信仰の倒錯に陥るのではなく、私たちキリス
ト者にとしましては、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよ
う。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしにまなびなさい。そうすれば、あなたが
たは安らぎを得られる」(11:28、29)とのイエスの招きに従って生きていきたいと願うものであります。
・そのことが今日の日本の現実の中で、私たちにどのような生き方を促しているのでしょうか。私たちは
民族や国家に属する人間です。沖縄の人たちからすれば、私たちはヤマトンチューでウチナンチューでは
ありません。私たちはヤマトンチューとして、ヤマトによる沖縄支配と差別に加担しています。アジアの
々に対しては日本の国家による侵略戦争による犯罪に、私たちは日本国家に属する人間としてその罪責を
負わなければなりません。
・ですから、今回の安倍政権の集団的自衛権の行使容認を認めるわけにはいきません。それに反対する多
くの市民の方々と共に、今後も「戦争させない」「9条壊すな」を訴え続けて行き、選挙を通しては安倍
政権を倒していかなければならないと思います。テレビを見ていましたら、ある政治評論家が野党は安倍
政権の手続きについては反対しているが、安保法制に対するきちっとした対案がないという、野党に対す
る批判をしていました。
・私たちは一市民として、また一キリスト者として、何故安倍政権の安保法制に対して反対するのでしょ
うか。もちろん安保法制は戦争法案であり、日本の国を戦争のできる国にしていくからです。そういう安
保法案に対して、私たちは神の支配の到来と神の国の実現成就を信じ、祈りつつ、待ちつつ、正義を行う
者として、イエスによって招かれ呼び出されている者として反対し続けていかなければならいのではない
でしょうか。一市民であると共に、一キリスト者としてのアイデンティティーをしかりと持って、この時
代の状況に向かい合っていかなければならないと思うのであります。
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