なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(47)

          「砕かれた壺」エレミヤ書19:1-13、

                    2016年10月2日(日)船越教会礼拝説教


エルサレムの南方にベン・ヒンノムの谷があります。エレミヤの時代、そこには人身供犠(くぎ)=

人身御供(ひとみごくう)のための祭壇がありました。その祭壇をトフェト(「焼く所」の意)と言い

ました。エレミヤが預言者として活動する前の時代、アハズ(735-715)、マナセ(687-6

42)の治世にユダの人々が異教的な人身供犠をそこで行っていたのです。しかし、エレミヤと同時代

の王であるヨシヤ王の宗教改革によって、この異教的な人身供犠は排除されました。列王記下23章10節

に、「王(ヨシヤ王)はベン・ヒンノムの谷にあるトフェトを汚し、だれもモレクのために自分の息子、

娘に火の中を通らせることのないようにした」と記されています。これはヨシヤ王の宗教改革の一環とし

て、人身供犠の祭壇としてのトフェトをヨシヤ王が破壊したことを意味します。ところが、609年のエジ

プトとの戦いで急死したヨシヤ王の死後、トフェトではまた人身供犠が行われていたようです。

・エレミヤは、そのような異教の神バアルの祭壇を築き、息子たちを火で焼き、焼き尽くす献げ物とし

てバアルにささげたユダの王たち、エルサレムの住人に対して、神ヤハウエから災いの預言を語るよう

に命じられます。<主はこう言われる。「行って、陶器師の壺を買い、民の長老と、長老格の祭司を幾

人か連れて、陶片の門を出たところにある、ベン・ヒンノムの谷へ出て行き、そこでわたしがあなたに

語る言葉を呼ばわって、言うがいい。ユダの王たち、エルサレムの住民よ、主の言葉を聞け。イスラエ

ルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしは災いをこのところにもたらす。それを聞く者は耳鳴

りがする。それは彼らがわたしを捨て、このところを異教の地とし、そこで彼らも彼らの先祖もユダの

王たちも知らなかった他の神々に香をたき、このところを無実の人の血で満たしたからである。彼らは

バアルのために聖なる高台を築き、息子たちを火で焼き、焼き尽くす献げ物としてバアルにささげた>

(19:1-5a)。

・このエレミヤの預言箇所を繰り返し、繰り返し読んでいると、このユダの国の王をはじめとするイスラ

エルの民が、彼らの創造者であり救済者である神ヤハウエを捨て、異教の神バアルを崇拝したということ

は、ただ古代イスラエルの歴史物語ではなく、近現代史の人間の在り様にも通じるものがあるように思え

てくるのであります。

・日本の場合、明治以降敗戦までの歴史を振り返るときに、富国強兵を旗印に国家主義的な歴史形成をし

てきた戦前の日本の国は、エレミヤが神ヤハウエに命じられ、災いの預言を語ったユダの国の状況と同じ

ではないのかと思えてくるのです。ユダの国は、当時の強国であったアッシリアバビロニアやエジプト

という覇権主義的な国のはざまで、それらの国の同盟国として生き延びようとして、それらの国の異教の

神バアルをヤハウエに代えて崇拝するようになりました。明治以降の日本も、当時のイギリス、フランス、

アメリカなどの植民地主義的な列強の支配する世界で、その列強の国の一つになって生き延びる道を選択

し、その戦いに巻き込まれて、15年戦争から太平洋戦争へと突入し、破局的な敗戦を迎えたのです。その

災いは、私たち日本人に及んだだけではなく、日本の国の侵略によって、アジアの国々とアジアの人々に、

取り返しがつかないほど、多くの犠牲を強いてしまいました。そのような戦前の日本の国のあり方に対し

て、根本的な批判をしたエレミヤのような預言者的な人物が日本にはいたでしょうか。思い当たるのは田

中正造です。

・<この(田中正造の)時代、日本は長い江戸幕府による封建制を脱却し、殖産興国を旗じるしとして世界の

列強という国々に肩を並べようとしていました。列強と肩を並べるには、当時世界的に流行した領土拡大と

他国を植民地化するという政策を国策として推し進める必要がありました。この当時、銅は絹とともに外貨

を稼ぐための最大の商品価値を有していたのです。そのため国は、これら増産のために大口生産者に相当な

肩入れをしました。足尾銅山は、この当時国内において40~50%の銅生産率で、国内第1位を誇っていまし

た。手っ取り早く言うと「銅と絹を売って、軍艦と兵隊を手に入れ、アジアの隣国へ侵略し、領土拡大を画

策した」のです。こうした政治背景の中で、正造は「足尾銅山の操業をやめさせろ!」「戦争は犯罪である。

世界の軍備を全廃するよう日本から進言すべきだ!」と明治政府に迫ります。正造の行動でのクライマック

スの一つは「天皇への直訴」(1901(明治34)年12月10日)ですが、直訴に関する当時の最高刑は「死刑」で

あり、正造は真に命を賭けて行動したのです>。< その後、鉱毒事件は社会問題にまで広まりましたが、

解決せず、正造は悲痛なおもいで谷中村に住み、治水の名のもとに滅亡に追い込まれようとした谷中村を救

おうと、農民とともに村の貯水池化に反対し再建に取り組みましたが、1913(大正2)年9月4日に71歳10か

月で世を去った>のです。田中正造は、「真の文明は 山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さ

ざるべし」と言っています。しかし、田中正造の訴えは退けられ、日本の国は方向転換できずに、敗戦と

いう悲惨な結末まで突き進んでしまいました。

・ユダの国の場合も同じでした。エレミヤは、先ほどの預言に続いて、<それゆえ、見よ、と主は言われる。

このところがもはやトフェトとか、ベン・ヒンノムの谷と呼ばれることなく、殺戮の谷と呼ばれる日が来

る>(19:6)と語り、続けてバビロンによるエルサレムの徹底的な破壊を思わせる悲惨な状況が語られて

います。そして壺を砕く預言者の象徴行為をするように、エレミヤは神ヤハウエに命じられるのです。<

あなたは、共に行く人々の見ているところで、その壺を砕き、彼らに言うがよい。万軍の主はこう言われ

る。陶工の作った物は、一度砕いたなら元に戻すことができない。それほどに、わたしはこの民と都を砕く。

人々は葬る場所がないのでトフェトに葬る>(10,11節)と。ユダの王とエルサレムの住民が選らんだ異

教の神バアル崇拝は、ユダの国が周辺の覇権主義的な国々と同じ道を進もうとしたことを意味します。そ

の結果が覇権主義的な大国バビロニアによるエルサレム滅亡と第2回捕囚なのです。

・今日のエレミヤ書の預言の箇所で、注目したいのは、異教の神バアル崇拝と人身供犠について、5節後半

で神ヤハウエの言葉として<わたしはこのようなことを命じもせず、語りもせず、心に思い浮かべもしなか

った>と言われているところであります。ということは、異教の神バアル崇拝と人身供犠は、ユダの国の王

とその住民であるイスラエルの民が、神のみ心を無視して、自分の思いを優先して、覇権主義的な他国から

の圧迫があったとはいえ、自己中心的に選び取った道ということになります。

・この自己中心主義を、この5節後半の言葉は批判しているのではないでしょうか。文化人類学者の川田順

三は、『人類の地平から~生きること死ぬこと~』の中で人間の自己中心性に触れて、このように述べてい

ます。<西アジアの農牧複合社会で成立した旧約聖書に示されている「ヒト中心主義」に、いま私たちは

サヨナラを言うべきときに来ているのではないか。人類の歴史の中で次々に批判され、否定されてきた自

己中心主義、自文化中心主義、地球中心主義、つまり天動説など、程度の差はありますが、自己中心とな

る考え方の、いわば最後の砦が「ヒト中心主義」です。旧約聖書以来キリスト教文化圏に受け継がれ、近

ヒューマニズムの基礎ともなった、それなりに一定の歴史上の役割を果たした考え方を、私は「創世記

パラダイム」と呼んでいるのですが、現代の人類が直面している、地球規模のアポリア(難問)、解決法

の見つからない行き詰まり状況の中で「創世記パラダイム」は機能せず、これを超えた種間的なパラダイ

ム、ものの考える枠組みを探求すべきときに来ていると思います>と言って、「ヒト中心主義」(創世記

パラダイム)~キリスト教から出てきたもの~を批判しています。そして<とはいっても、そう考える主

体が人間である以上、ヒト中心になることは避けられないでしょう。それに現代のヒトが置かれているさ

まざまな疎外状況の克服、元来の倫理的な価値を失って、単なる経済行為に堕した「はたらく」というこ

との人間的意味の回復や、効率優先で営利目的や組織や機械に奉仕させられている人間にとっての「人間

らしさ」の復権などが大切であると考えれば、ただヒト中心主義を否定すれば済むというものはでないこ

とは確かです。その意味では、私は人間の傲慢に基づくヒト中心主義は否定されるべきだ。けれども、同

時に「人間尊重」であるべきだと思います。し二つの原則は相互に背反しないと思うのです>と言ってい

ます。

・<わたしはこのようなことを命じもせず、語りもせず、心に思い浮かべもしなかった>。

・これはイスラエルの傲慢に基づく、ヒト中心主義に対する批判の言葉として読むことができます。フィリ

ピの信徒への手紙2章3,4節には<何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互に相手を

自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意しなさい>と語られてい

ます。パウロはそれに続けて、<キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執

ようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられた。・・・>と語

っています。

・先日関田先生は、ヨハネ福音書10章31-43節に基づいて、説教してくださいました。そのヨハネの箇所

には、イエスの言葉として<もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよ

い。しかし、おこなっているのであれば、わたしを信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、

わたしが父の内にいることを、あなたがたは知り、また、悟だろう>と言われています。イエスと父なる

神は一つなのです。

・ヒト中心主義は否定されなければなりませんが、人が神と隣人との関わりにおいてその尊厳をもって生

きていくことを放棄してはならないと思います。預言者エレミヤは、人間としての尊厳をもって私たちが

この歴史社会を生きていくことを促しているのではないでしょうか。<わたしはこのようなことを命じも

せず、語りもせず、心に思い浮かべもしなかった>と神ヤハウエに言われないように。