なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(25)

    「この事を誇る」エレミヤ書9:22-25、2016年1月17日(日)船越教会礼拝説教


・ある本を読んでいた時に、その中に日本についてこのように書かれていました。日本は文化遺産や自然科学

の研究においては世界に誇ることはできるが、政治社会関係においては世界に誇ることのできるものはほとん

どいないと。特に政治家の中にはそのような人物は皆無に近いと。

・言われてみますと、確かにそうなのかもしれないと思いました。世界に誇ることのできる政治家を日本で生

み出すことができないでいるということは、日本社会の構成員である私たちにそのような政治家を生み出す力

がないということでもあります。

エレミヤ書を読んでいますと、預言者エレミヤが取り次いでいる「真実」を大切にする私たちと、そのよう

な私たちによって立てられた、「真実」によって社会を形成する政治家が生まれなければ、どの国においても

世界に誇るべき政治家は出てこないだろうと思うのであります。エレミヤの真実とは、神の真実ですが、その

ことが先ほど読んでいただいたエレミヤ書9章22節、23節に、エレミヤの預言の言葉として記されているので

あります。もう一度その個所を読んでみたいと思います。

・<主はこう言われる。/知恵ある者は、知恵を誇るな。/力ある者は、その力を誇るな。/富みある者は、

その富を誇るな。/むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。/目覚めてわたしを知ることを。/わたしこそ

主、/この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/そのことをわたしは喜ぶ、と主は言われる>(9:22,23)。

・知恵がある者にとって、「知恵がある」ということ自身が批判されているのではありません。その知恵をも

って神に仕え、人に仕えるのではなく、自分に知恵があることそれ自身を誇ることが戒められているのであり

ます。そのような知恵は自己を誇ることになりますので、神の為にも他者の為にもなりません。ですから、む

しろ知恵があるということが、神の「慈しみと正義と恵みの業」からすると、その神の御業の阻害にはなって

も、それに仕える力にはならないということなのです。

・「力ある者は、その力を誇るな」とは、これも「知恵ある者は、その知恵を誇るな」と同じで、力そのもの

が批判されているのではありません。その力がどのように用いられるかが問題なのだと言われているのです。

力が仕える力であれば、その人の力は特に助けを求めている人の助けになるでしょう。

・「富める者は、その富を誇るな」も、前の二つと同じであります。富める者が、その富をもって神と人に仕

えるならば、その富は困っている人の命と生活を支える力となっていくでしょう。

・しかし、現実には知恵や力や富を持つ者は、知恵や力や富を誇ることによって自らの偉大さを示すことが多

いと思われます。ですから、パウロはコリントの信徒への手紙1章26節以下で、このように語っているのです。

<兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、想い起してみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かっ

たわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけではありません。ところが、神は知恵ある者

に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。ま

た、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選

ばれたのです。それは、だれ一人、神の前に誇ることができないようにするためです。神によってあなたがた

はキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられ

たのです。「誇る者は湯を誇れ」と書いてあるとおりです>(1:26-31)と語っているのです。

・ですから、エレミヤも、知恵や力や富を誇るのではなく、<むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚

めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みを行う事、その事をわたしは喜ぶ、と

主は言われる>と語っているのです。

・エレミヤがこの預言を取り次いだ時のユダの国とイスラエルの民の状況は、このエレミヤの預言とは全く反

対の状況だったようです。新バビロニア帝国の興隆によって、その侵略の脅威がユダの国を支配していました。

ヨシヤ王の宗教改革も、エジプト王との戦いでヨシヤ王が急死し挫折していました。新バビロニア帝国の侵略

を防ぐ手だてはヤハウエ信仰を放棄して、豊穣の神バール信仰が蔓延して、異教化していたユダの国にはあり

ませんでした。まさにユダの国は、知恵と力と富を誇る異教の国々と同じようになっていたのです。そのよう

なユダの国は、より強大な知恵と力と富を誇る国による支配を防ぐことはできませんでした。

・エレミヤは、それでも同胞であるイスラエルの人々に神の真実(9:22,23)を語らざるを得ませんでした。し

かし同時に24節、25節の審判の預言も語らざるを得なかったのです。エレミヤの語る神の真実への招きは、ユ

ダの国とそのイスラエルの民全体には受け止められず、現実には24節、25節の審判の預言がイスラエルの民に

とっては、バビロニア捕囚という歴史的事件によって現実になって行くのです。

・<見よ、時が来る、と主は言われる。/そのとき、わたしは包皮に割礼を受けた者を/ことごとく罰する。

/エジプト、ユダ、エドム/アンモンの人々、モアブ/すべて荒れ野に住み/もみ上げの毛を切っている人々

/すなわち割礼のない諸民族をことごとく罰し/また、心に割礼のないイスラエルの家を/すべて罰する>

(24,25節)。

イスラエルの民の歴史において、実際にはこの審判預言が現実となって行きました。ただ捕囚の民の中で神

の真実を告げるエレミヤの預言がどのように継承されたのかはよく分かりませんが、バビロニアにおけるイス

ラエルの捕囚の民は侵略者であるバビロニアの人々の奴隷として同化吸収されて、イスラエルの民としてのア

イデンティティーを完全に失っていったわけではありません。バビロニア捕囚期に捕囚民の中から第二イザヤ

のような預言者が出現したということは、何らかの形で神の真実を告げたエレミヤの預言が捕囚民の中で継承

されたことを証言しているのではないでしょうか。エレミヤの預言がまとめられてエレミヤ書として残ってい

るという事実も、このエレミヤの預言に共感して、これを残していこうとした人々がいたからであります。そ

ういう人がいなかったとしたら、エレミヤの預言は残らなかったでしょうし、エレミヤという人物も歴史のモ

ズクの中に消えてしまったに違いありません。国家滅亡という破局的な状況の中で、一人の個人として、ひた

すらに神の言葉に拠り所をおいて立ち続けたのがエレミヤでありました。そのことの故に、エレミヤは当時の

ユダや社会の中では、はみ出し者であり、変わり者であり、異質者と見られたのではないでしょうか。見えな

い神との結びつきの中で、神の喜びたもうことにこだわり、ただ神を誇る人間は、エレミヤの時代のイスラエ

ルにあってはユダの国の当局者からは危険人物と見られたに違いありません。

・ご存知のように日本とドイツは第二次世界大戦の敗戦国であるということでは同じですが、戦後の歴史にお

いて自らの国の戦争犯罪をどう処理したかという点では、国家として対照的な歩みをしてきています。ドイツ

は戦後ナチス協力者を徹底的に追放し、周辺の国々や人々に対する賠償をきちっとして、その関係回復を図り、

今やイギリスやフランスと共にヨーロッパ連合の重要な国となって周辺の国々からも信頼を獲得しています。

それに対して日本の国は、自民党政府がアメリカに追随して、中国や韓国、朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)を

はじめアジアの国々の人々に、きちっと謝罪と賠償をして、信頼を回復するところまでには、戦後70年が経っ

ても至っておりません。

・ドイツの教会は、日本の教会が当時の天皇制国家の枠組みに組み込まれて、戦争協力したように、ナチス

迎合しましたが、迎合しないで、イエスの主権の下に立ち続けた少数の教会とキリスト者がいました。そのた

めにボンフェッファーのように処刑された人もいました。バルトのようにドイツから追放されて、スイスから

言葉でナチズムを批判し続けた人もいました。ニーメラーのように獄中に捕えられていた人もいました。ヒッ

トラーの時代に弾圧されたり、追放されたりしたキリスト者が、戦後のドイツの教会を、ナチズムに協力した

教会の罪責を、戦後すぐに悔い改めて罪責告白を出して、導いていったのです。そのような教会の姿勢がドイ

ツの政治に影響を与えたのではないでしょうか。

・戦争ができる国づくりに邁進する安倍政権の危機が叫ばれる中で、最近発行された神奈川教区ヤスクニ・天

皇制問題小委員会の神奈川ヤスクニニュースの巻頭言で、評論家の菅孝行さんが、軽減税率適用範囲一兆円に

よって、公明党に貸しを作ったので、公明党は安倍政権に協力せざるを得なくなって、「軽減税率の範囲拡大

は、どんだ毒饅頭である」と述べて、このように続けています。「旗色は悪い。オール沖縄の象徴である翁長

知事だって安保賛成なのだ。だから一方では、公明党の支持基盤をも巻き込んで、自公弱体化を目指す議会内

野党の政治が必要だ。その限りでは、共産党が安保反対を凍結した、などと非難する(極左気取り)は不毛で

ある。しかし、院外には、そういう取り引きの世話にならない原則的な運動が一歩も引かずに立っていなけれ

ばならない。議会主義の是非などどうでもよい。二枚舌と言われようとも、どちらもやる、という構えが必要

だ」と言っています。

・私はエレミヤもパウロも、勿論イエスも、この世の力の攻勢の中で、神との結びつきの中で、「一歩もひか

ずに」立ちつづけた人ではないかと思います。少数であってもそのような人たちの証言が未来を造り出してき

たし、これからそうではないでしょうか。