なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(111)

2月7降誕節第七主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。            (ヨハネ3:16)

③ 讃美歌    12(とおときわが神よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-012.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編103編1-13節(讃美歌交読詩編111頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書26章57-68節(新約54頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  280(馬槽のなかに)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-280.htm

説教 「神を冒涜したのは誰か」  北村慈郎牧師

祈祷

 

  • エスは神を冒涜したという理由で逮捕され、裁判にかけられて十字架刑で殺されました。しかし、神を冒涜したのはイエスを逮捕し、裁判にかけが側ではないでしょうか。

 

  • 今日のマタイによる福音書の箇所はイエスが裁判を受けているところです。

 

  • 「人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、ことの成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた」(57-58節)というのです。

 

  • そして裁判が行われます。

 

  • 「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた」(59節)というのです。「祭司長たちと最高法院の全員」とは、イエスの時代ローマの属州であったユダヤの国の自治機関で、ユダヤ人にとっては立法、行政、司法の中心でした。古代社会では三権分立ではなく、すべての権力が一つに集中していました。この最高法院は現役の大祭司を議長とし、70人の議員によって構成されていました。

 

  • このマタイによる福音書の記事では、「大祭司たち」とありますが、これは現役の大祭司と大祭司経験者を指します。一度大祭司を経験した人は、大祭司を辞めても経験者として現役の大祭司を補佐していたようです。

 

  • ですから、イエスが連れて行かれたところは、正に当時のユダヤ人にとってはユダヤの国の最高裁判所のようなところでした。この記事の様子では公正な裁判というよりは、はじめからイエスを死刑にしようとして行われた歪められた裁判のように思われます。最初から裁判官達がイエスに不利な偽証を求めたというのですから、とてもまともな裁判とは思えません。

 

  • 「偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった」(60節)と言われます。「最後に二人の者が来て、『この男は、〈神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる〉と言いました』と告げた」(60b-61節)と。

 

  • 「そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。『何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。』」(62節)しかし、「イエスは黙り続けておられた」(63節)というのです。

 

  • 「大祭司は言った。『生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。』」(63b節)。すると「イエスは言われた。『それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。』」(64節)と。

 

  • 「そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。『神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか』人々は『死刑にすべてきだ』と答えた。」(65,66節)

 

  • そしてイエスに暴行が加えられます。「イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、『メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ』と言った」(67,68節)。イエスは人々から嘲られたのです。

 

  • このイエスの裁判の場面の記事を読むならば、不当な裁判によって、神によって命与えられ、本来神のものである人間イエスが、同じ人間によって苦しめられているという不条理に突き当たらざるを得ません。

 

  • 私たちの教会はこのイエスの裁判の場面をどのように感じ、どのように読んで来たのでしょうか。

 

  • ウルリッヒ・ルツはその注解書の中でこのテキストの影響史に触れています。それによりますと、「この場面は、古代には、また中世中期まで、たいした効力はなかった」と言うのです。この裁判や暴行と嘲弄を受けているイエスの姿が、絵画などに描かれている場合も、威厳に満ちていて、イエスの存在の方が大きく偉大に描かれていて暴行している人たちがかすんで見えるくらいなのです。つまりイエスの苦難そのものよりも、苦難に勝利した神の子イエスに焦点があったということでしょう。

 

  • 下の絵は、「ジョット・ディ・ボンドー作 1304-6年」のものです。座るキリストによってたかって攻撃する民衆が描かれています。右隅では、ユダヤの大祭司とローマ総督ピラトと思われる人物が話し込んでいる姿が描かれています。まだ、この絵には拷問の残酷さは見られません。 

 

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  • しかし、中世中期から違ってきます。拷問の残酷さが強調されてきます。1508年に描かれたグリューネヴルトのキリスト嘲弄の絵にもそれが見られます(下記参照)。またその頃の受難劇の絵にもイエスの虐待が念入りに描かれていると言われます。

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  • 中世後期になりますと、イエスの苦難の後を従うことが強調されてきます。ある注解者は「われわれが彼と共に苦しみ、彼の苦難と同じ形となり、そして彼の足跡を追っていくことは、ふさわしくまた正当なことである」と言っています。

 

  • そして宗教改革時代には、「宗教改革的な信心においては、イエスの代理的苦難が中心に位置していた。キリストはわれわれのためにそれらすべての苦難を受けた。ルターははっきりと中世の受難の絵や劇の場面を暗示しつつ説教している、『私にとって最も重要なことは、・・・・彼がこれをわれわれのために甘受された、ということである。だが、髪の毛のむしり取りや唾は皆われわれの罪なのであり、あらゆるキリスト者はそれを、そこには私の諸々の罪が書かれているかのように、見るべきなのだ!』「ああ、われわれの罪が彼を撲ったのだ」(ツィンツェンドルフ)

 

  • ルツは最後に現代的なこの嘲弄の芸術表現として、カトリックの司祭で芸術家であるヘルベルト・ファルケンによる1976年のペン画に触れてこのように言っています。「・・・キリストは苦難する人間そのものである。ただ、彼の容貌だけがこの絵画描写において本当に人間的である。この芸術家は他者の苦難に沈潜しようと試みはせず、われわれのキリストの代理的苦難が問題なのではない。彼のキリストは、20世紀に何千何万という人間が嘲弄され拷問されそして苦難したように、人間として苦難するのである」と。

 

  • 「ヘルベルト・ファルケンによる1976年のペン画」をインターネットで調べましたが、どうしても見つかりませんでした。本当は、グリューネ・ヴァルトの絵と同じように、ここで紹介できればと思ったのですが、残念ながらそれができません。しかし、ルツが「彼のキリストは、20世紀に何千何万という人間が嘲弄され拷問されそして苦難したように、人間として苦難するのである」という言葉から、それなりに想像することはできるでしょう。

 

  • 20世紀に政治的な拷問によって苦しみ、殺された人がどれほどいるか。恐ろしい限りです。ちょっと想い起すだけでもナチススターリンソ連中国共産党天皇制日本国家、ポルポトカンボジアルワンダ、最近ではシリアで政治的な拷問・虐殺が起きていると言われます。日本では戦前の小林多喜二の拷問がよく知られています。戦時下ではホーリネスの牧師も経験しました。その一人一人の人間の苦難と同じようにイエス(キリスト)も人間としての苦難を経験したのだと言うのです。

 

  • そしてルツは、「今日に対するこの(裁判・キリスト嘲弄)のテクストの意味の指向性は何であろうか」、即ち「今日、このテキストが指し示しているものは何か」と問うています。そして「キリストは、彼以前にも彼以後にも何千人という人間が苦難したように、人間を通して苦しんできた神の人間である」と言い、「そのような(この)テクストは、(われわれに)関与し狼狽することを要求する。それはわれわれを沈黙させ、われわれがまさに語ることをしないように励ます」と言うのです。

 

  • ルツは、今日のテキストであるイエス裁判の記事は、このテキストをいろいろ解釈して、ここから神学的(信仰的)意味を引き出し、それを私たちが語ることを求めてはいない、と言うのです。「キリスト(イエス)は、彼以前にも彼以後にも何千人という人間が苦難したように、人間を通して苦しんできた神の人間である」のだから、このテキストは、私たちにその人間の苦難に「関与し狼狽することを要求する」のだと言うのです。

 

  • 今まで人間の歴史の中で、キリスト(イエス)と同じように拷問と虐殺によって苦しみ、殺された一人一人の苦しみ、今も同じような目にあっている一人一人の「人間の苦難」に、私たちも関与していること。つまり私たちもそのような人間の苦難に対して、加害者の一人として関与しているのではないかと、自らに問い、狼狽することを、このイエス裁判のテキストは私たちに求めているのではないか。そのようにルツは言っているのです。

 

  • そしてルツは、「このことを言うことが、私はここで最も重要である」と言っているのです。

 

  • 今日は、このルツの言葉に静かに耳を傾けたいと思います。

 

  • エスの苦難への、すなわち人間による人間の苦難への「関与と狼狽」を通して、人間による人間の苦難から、人間による人間の生かし合いを示すイエスの道を主体的に歩んで行きたいと願います。

 

  • そのようなイエスの道に、主が私たち一人一人を導いて下さいますように。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。新型コロナウイリス感染拡大が止まりません。そのために、教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 神さま、拷問や虐殺は人間による人間に対する暴力による犯罪です。全体主義的な国家はそれを正当化し、過去においても現在においても、政治的敵対者をはじめ、多くの人々を拷問にかけ、虐殺しています。イエスの受難と十字架という出来事も、そのような人間による人間の苦難と虐殺の一つの事例と考えられます。ウルは、「キリスト(イエス)は、彼以前にも彼以後にも何千人という人間が苦難したように、人間を通して苦しんできた神の人間である」と言って、今日のイエスの裁判と嘲弄のテキストは、私たち一人一人が、この人間による人間の苦難に「関与し狼狽することを要求する」と言っています。
  • そのことは、この人間による人間の苦難に、私たちは無関係ではなく、コミットしていることを示していると思います。
  • 神さま、この現実を直視し、人間による人間の生かし合いの道を私たちに開いてくださったイエスに従って、私たちが生きていくことができますように、一人一人をお導き下さい。
  • 緊急事態宣言が延期されました。コロナ感染によって苦しんでいる私たちに、その終息への道を与えてください。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌    313(愛するイエス

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-313.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

これで礼拝は終わります。