なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(109)

 

1月24降誕節第五主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。            (ヨハネ3:16)

③ 讃美歌    8(心の底から)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-008.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編44編2-9節(讃美歌交読詩編48頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   マタイによる福音書26章36-46節(新約53頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  288(恵みにかがやき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-288.htm

 

説教 「祈りの格闘」  北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 私が紅葉坂教会の牧師だった時に、98歳で召された女性の方で、お子さんは女の子と男の子の二人いましたが、男の子を大学生時代に事故で亡くされた方がいました。最愛の息子さんで、その方は生涯その悲しみを抱えて生きていました。もともとはご両親が聖公会の信徒でしたが、横浜のフェリス出身で、紅葉坂教会の会員の息子さんと結婚し、結婚後は召されるまで紅葉坂教会のメンバーでありました。

 

  • 私は高校3年生の時に友人に誘われて、紅葉坂教会に行くようになり、その年のクリスマスに洗礼を受け、紅葉坂教会のメンバーになりました。1959年ですが、それから1968年3月までは紅葉坂教会に信徒として関わり、1974年4月からから1977年3月までは伝道師として、そして1995年以降は牧師として16年間紅葉坂教会に関わりました。

 

  • この方と教会の礼拝で直接お会いしたのは、伝道師時代までです。牧師になってからは用賀のご自宅に毎年一度訪問しました。訪問するときは、大体2時間以上いました。聖書の質問をはじめ、問われることが多かったからです。

 

  • この方が生前常々おっしゃっていたことがあります。大学生の最愛の息子を事故で失って、神はなぜ自分の息子を奪ったのかが分からずに苦しんでいたそうです。彼女は、その頃フェリスの同窓会の会長をしていて、たまたま私が出た神学校の校長を辞めてフェリス女学院の院長になっていました桑田秀延先生に、そのことをお話してお聞きしたそうです。どうして私がこのような目にあわなければならないのかと。すると、桑田先生は、「私にも分かりません。Hさん、神さまにぶつかりなさい」とおっしゃったというのです。彼女は、この桑田先生の言葉が心に響いたのでしょう。晩年教会にも来れなくなってから、年に1回私がお訪ねする度に、繰り返しこのことをお話なさっていました。

 

  • 人には誰でも背負わなければならない重荷があります。キリスト者は自分の重荷を背負いながら神にぶつかっていくのです。

 

 

  • ヤコブは兄エサウを騙して父イサクから長子の特権を奪ったために、兄を恐れて母方の叔父ラバンのもとに逃げていきます。ラバンの下で永年生活しラバンの二人の娘と結婚して財産を持って、エサウのいる自分の故郷に帰ってきます。いよいよヤボクの渡しをわたって、エサウのいる故郷に入ろうとしたとき、使いの形を取った神と格闘、相撲をとって、祝福を獲得します。そしてヤボクの渡しをわたって、すっかり昔のことを忘れて、弟の帰還を喜ぶエサウに再会することができました。

 

  • 重荷を背負っている者にとって、重荷が肩に食い込んで重くて辛くて生きていくのも苦しいという状態から解放されるのは、その重荷が軽くなることです。

 

  • 重荷が軽くなるのは、重荷がなくなるからではありません。自分の重荷を背負いながら、神との格闘によって、その重荷が神から与えられた重荷として、神もまた自分と一緒にその重荷を背負ってくれていることを信じられるからです。

 

  • ゲッセマネのイエスも、まさにそのような神との格闘を経て、十字架への道を一歩一歩進んでいくことになります。

 

  • 「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲッセマネという所に来て、『わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人(ヤコブヨハネ)を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた」(36-37節)というのです。新共同訳の「悲しみもだえはじめられた」は田川訳では「苦しみ、困惑しはじめた」となっています。

 

  • 「そして、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を醒ましていなさい』」(38節)。この所も田川訳によりますと、「その時、彼らに言う、『わたしの精神は死ぬほどひどく苦しんでいる。ここにとどまって、私とともに眼を覚ましていよ』」です。

 

  • ここには、このゲッセマネでの祈りの後に、イエスは自分の身に迫ってくるであろう苦難の厳しさに恐れおののいている人間イエスの姿が描かれています。

 

  • このテキストは、「キリストをイースター勝利者また神と理解していた古代教会に困難を与えた」と言われます。そのために、古代教会では、イエスの苦難は再三再四制限され、ある意味で相対化されたと言われます。つまり古代教会では、不安や神への絶望を意味するイエスの苦難は、受け入れがたかったというのです。それは、イエスの神性を汚すことになると考えられていたからでしょう。

 

  • 逆に「暗闇の中で神に絶望する、一人の祈る人間の物語として理解するという現代思想」は、このイエスの苦難を完全な神の喪失ととらえるかも知れません。

 

  • しかし、マタイ福音書の記者はどちらとも違うように思われます。

 

  • 三人の弟子たちからも離れて一人で祈ったイエスは、このように祈ったと言われます。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と。(39節)。これは一回目のイエスの祈りです。

 

  • エスは「それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。『あなたがたはこのように、わずか一時でもわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬように、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い』(40,41節)と語られたというのです。

 

  • その後、「更に、二度目に向こうへ行って祈られた」と言われていて、二度目にはこのように祈ったというのです。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」(42節)。

 

  • そして「再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったからである。そこで、彼らを離れ、また向こうに行って、三度目も同じ言葉で祈られた」(43,44節)のです。

 

  • 三度のイエスの祈りには、神への不信は一切ありません。杯を取り除けてくださいと祈りますが、「父よ、・・・御心のままに」と神の御心がなるようにと祈っているのです。イエスの祈りは敬虔の、服従の、そして信頼の行為であり、絶望の行為ではありません。

 

  • マタイは「われわれと共なる神」であるイエスの歴史を物語っています。イエスの誕生物語では、【「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は「神は我々と共におられる」という意味である】(1:23)と記していますが、「われわれと共なる神」は十字架の極みにおけるイエスにまで貫かれているのです。

 

  • 《それゆえ、マタイは45節で、イエスが再び気を取り直し、決意を固め、まだ眠っている弟子たちの前に現れ、「時が近づいた」と語っているのですが、そこでイエスの気分の急変を記す必要も、また彼の決意も記す必要がなかったのです。≪イエスの悲しみ、不安、絶望もまた、マタイにとっては、神にずっと支えられたままでありました。イエスは決して神に見捨てられてはおらず、神なしではなかったのです》(ルツ)。

 

  • ルツは〈《我らと共なる神》として、イエスは正当な神の子、人間がそうあって良いもののモデルであります〉と言っています。そしてこのように語っているのです。少し長くなりますが、ゆっくりと、注意深くお読みください。

 

  • 〈苦難する義人という聖書的伝統は、ゲッセマネにおけるイエスの物語と全く同様に、義人の生き生きした敬虔には、常に苦情と信頼、自分自身の願いと神の意志への恭順が属しているのです。両者は相互から切り離されることを決してしていません。なぜなら、神は人間の生ける伴侶(パートナー)であり、生ける人間を自分の完全さでもって過大に作り上げ、そうして人間がもはや人間的であることを許さないような、上位に位置する完璧な機関ではないからであります。悲しみ、不安、願い、それに苦情は、克服されることが肝要な、肉の弱さの一部ではなく、現に生きられた神の前での義の一部であります。イエスの情動は、「正しい」キリスト論において最もよく除去され、また人間生活において為し得る限り克服されるべき、人間の否定的な部分ではまさにないのであります。このような義人のモデルにおいて、不安は自分の居場所を持ち、またこのような敬虔者のモデルにおいて、神への絶望は自分の居場所を持つのであります》。

 

  • 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というイエスゲッセマネの祈りの一節は、神対するイエスの「苦情」と言ってもよいでしょう。そのイエスの情動にはイエスの悲しみと不安そして絶望が内在しています。

 

  • 一方「あなたの御心が行われますように」というイエスの祈りには、父なる神への信頼が溢れています。

 

  • 苦情と信頼、自分自身の願いと神の意志への恭順、ルツは「義人の生き生きした敬虔には、常に苦情と信頼、自分自身の願いと神の意志への恭順が属しているのです。」と言うのです。それは、ゲッセマネのイエスがそうであったように、聖書の苦難する義人の伝統が示していることだと。

 

  • そしてこの「両者(苦情と信頼、自分自身の願いと神の意志への恭順)は相互から切り離されることを決してしていません。」と言います。

 

  • 私たちは、ともするとこの両者を対立的にとらえてはいないでしょうか。神への信頼と神の意志への恭順は、私たちの苦情や自分の願いを捨てることだと。その結果、神への信仰を何か超人的なもののように思ってはいないでしょうか。

 

  • けれども、ルツは、神はそのような者に私たち人間を創られたのではない。私たちの「悲しみ、不安、願い、苦情」という情動は、「克服されることが肝要な、肉の弱さの一部ではなく、現に生きられた神の前での義の一部であります。」と言っているのです。ゲッセマネのイエスの祈りによってそのことが示されていると。

 

  • 苦難を前に「この杯を取り除けてください」と、ゲッセマネの祈りで神に願ったイエスの願いは、人間本来の願いとして、決して否定されるものではなく、神によって受け止められているのだと言うのです。

 

  • ですから、「イエスの情動は、『正しい』キリスト論において最もよく除去され、また人間生活において為し得る限り克服されるべき、人間の否定的な部分ではまさにないのであります。このような義人のモデルにおいて、不安は自分の居場所を持ち、またこのような敬虔者のモデルにおいて、神への絶望は自分の居場所を持つのであります」と言うのです(ルツ)。

 

  • もし私たちが、「神我々と共に」というインマヌエルの現実の中に私たち人間の日常があることを見失って、神なしに自分だけで、悲しみや不安や絶望に出会ったとするならば、その悲しみや不安や絶望が私たちを飲み込んで、生きていくこともできなくなるのではないでしょうか。

 

  • しかし、「神我々と共に」という信仰において、私たちが悲しみと不安と絶望に出合うときには、「神我々と共に」という絶対的な関係の中で、私たちの悲しみと不安と絶望はその居場所を与えられつつ、神への信頼と恭順によって、それらの絶対的な支配から自由に生きることができるのです。

 

  • ゲッセマネのイエスの祈りは、そのようなイエスの福音の自由へと私たちを招いているのです。その招きにしたがって、この時代と社会の困難の中を祈りつつ生き抜いていきたいと願います。主が私たちをその道に導いて下さいますように。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。新型コロナウイリス感染拡大が止まりません。そのために、教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 神さま、私たちは苦しみや重荷に出合うと、神から見捨てられたように思い、不安と絶望にさいなまれるものです。そしてそのような時、私たちはあなたに祈ることをやめてしまいいがちです。
  • けれども、ゲッセマネの祈りにおけるイエスは、苦難と死の恐れの中でも「神我々と共に」を信じ、自らの悲しみ、不安、絶望をあなたに訴えました。そのイエスの思いをあなたは受け止められました。イエスは、そのようなあなたへの絶対的な信頼の中で「あなたの御心が行われますように」と祈りました。そして背負わなければならない十字架を担われました。
  • 御心ならば、私たちにも、あなたに祈ることによって、私たちが背負わなければならない重荷を担うことができますようにお導き下さい。
  • コロナ感染の不安が蔓延しています。また、この状況下で生活と命が脅かされている方が沢山出ています。そのような一人一人をお守りください。
  • 核兵器の使用を全面的に禁止する、核兵器禁止条約が発効しました。被爆国であるに私たちの国はこの条約に加盟していません。どうか日本がこの条約に加盟し、「核なき世界」をめざすことができますように。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌    504(主よ、み手もて)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-504.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

これで礼拝は終わります。