なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(59)

「安らぎを得る」 マタイ11:25-30

          2019年12月1日(日)待降節第1主日礼拝説教

 

  • 私は1995年4月から、それまで18年間牧師として働いた名古屋の教会を辞任して、紅葉坂教会の牧師として働くようになりました。その少し前に、まだ私が名古屋の教会にいたころ、紅葉坂教会の役員から電話があり、ちょうど教会の集会案内を新しくするので、聖句を選んでほしいとわれました。
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  • みなさんもご存じのように、多くの教会の集会案内の看板には、今日のマタイ福音書11章28節の言葉が書かれています。≪疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。≫という言葉です。新共同訳が出る前に作られた看板であれば、そこに書かれているのは口語訳だと思われます。≪すべて重荷を負うて苦労する者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。≫です。

 

  • 私はそのとき、どうもこのマタイ福音書の聖句は、これを教会の看板に出すには、教会としては荷が重いと感じました。イエスご本人ならばともかく、教会はイエスに代わって、この言葉を掲げるほどの存在だろうかと考えまして、ヨハネ福音書8章32節の「真理はあなたたちを自由にする」にしていただきました。ですから、紅葉坂教会の看板には、今も「真理はあなたがたを自由にする」という聖句が掲げられていると思います。
  • ところで、「重荷を負う者」というマタイ福音書の11章28節の、この「重荷」とは、何を意味しているのでしょうか。
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  • 多分教会の看板でこの聖句を読んだ人の多くは、生活上の苦しみのことが言われていると思うのではないでしょうか。経済的に困っているとか、夫婦喧嘩してしまったとか、人に軽蔑されて苦しんでいるとか、子供のことで悩みがあるとか、それぞれの人の中にある悩みや苦しみです。

 

  • マタイ福音書のこの個所の「重荷」をそのように理解することは、間違いではないと思いますが、マタイ福音書が直接この「重荷」で語っているのは、そういう私たちの人生で経験する苦しみではありません。

 

  • では、この「重荷」とは、マタイ福音書では何を指しているのでしょうか。

 

  • マタイ福音書23章4節にこういう言葉があります。律法学者やファリサイ派の人々を指して言われているのですが、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」と。ここで言われている「背負いきれない重荷」とはユダヤ教の律法のことです。

 

  • 実は、この11章28節でも、「重荷を負うて苦労している者」とは、律法を背負わされて、それが重くて苦しんでいる人のことを言っているのです。ただ生活が苦しいということではありません。

 

  • そのことは、マタイ福音書の今日の個所の前後の記事を見ますと、よく分かります。20節から24節の今日の箇所の直前のところには、20節で、「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始めた」と言われていて、イエスが活動されたカファルナウムや、ゴラジン、ベッサイダが悔い改めないので、「裁きの時にはソドムの地の方が、お前たちよりもまだ軽い罰ですむのである」と言われています。ここでは、神の律法に背くこれらの町の人々の裁きが語られていることは明らかです。生活上のさまざまな苦しみをもつ人々のことが、20節から24節までのところで、問題にされているとは思えません。

 

  • また、今日の箇所のすぐ後には、12章1-8節ですが、これは安息日論争の記事です。この記事のマルコ版は、明らかに安息日律法をめぐってのものです。安息日に麦畑を通ったとき、イエスの弟子たちが空腹だったので麦の穂を摘んで食べたことが、ファリサイ派の人々が問題にして、イエスにあなたの弟子たちは安息日に禁じられていた定めを破ったと言って迫ったというのです。この弟子たちの行為のどこが安息日律法の違反なのかと言いますと、麦の穂をもんで殻をとったという行為が脱穀として労働に値すると考えられたからです。

 

  • このようにマタイ福音書では今日の箇所の前後の記事は明らかに律法が問題にされていますので、「重荷を負うて苦労する者」も律法の」問題で苦しんでいる者のことが、マタイでは考えられていると言えます。

 

  • では、律法の問題で苦しむとはどういうことなのでしょうか。それは罪の問題です。
  • エスは、律法は「神を愛することと自分のように隣人を愛すること」に尽きると言われました。そういう律法の問題で苦しむとは、自分は神を愛し得ないことに苦しむということになるでしょう。この私は何て自己中心的な利己的な存在なのか。神を神とせず、己の腹を神としている。パウロではありませんが、「わたしは内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしはなんというみじめな人間なのだろうか。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ロマ7:22-24)ということです。
  • そのことはまた、自分がいかに他者の重荷となっているかに苦しむということでもあります。戦時中軍人であった方の中で、戦後牧師になった方が何人かいます。そういう方はおそらく日本の侵略戦争に加担した己の罪を悔いて、戦後神と人に仕える道を選んだのだと思います。律法の問題に苦しむということは、そのような人間としてのその人の生き方に関わる問いに苦しむということなのです。
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  • 「すべて重荷を負うて苦しむ者はわたしのもとに来なさい」というイエスの招きは、そのような律法の問題で苦しむ者への招きなのであります。

 

  • このようにわたしたちを招かれるイエスは、関根正雄さんの言葉を借りれば、ご自身律法の重荷を負って「たおれてくださった方」です。「心がきよくなれないという問題に苦しむ者、特にそのことを律法のもとに示されてあえいでいる者は、律法の重荷のもとにたおれて下さったイエスのところに来ざるを得ない。そういう人に向かってイエスは、『わたしのもとにきなさい』と言われる。『わたしのくびき』(律法のくびき)は軽い、と言うのです」。

 

  • マタイ福音書5章17節には、イエスのこういう言葉が記されています。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするように人に教える者は、天の国で最も小さな者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(5:17-20)。

 

  • このように、≪疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。≫の≪疲れた者、重荷を負う者≫とは、直接的には「律法という重荷を負って苦しんでいる者」のことを意味しているのであります。

 

  • けれども、私たちの生活上の苦しみも、律法の重荷を負って苦しむことと密接不可分に結びついているのではないでしょうか。私たちが神を愛し、隣人を自分と同じように愛することができないがゆえに、そのことが一人一人の生活上の苦しみとなって現れているからです。

 

  • エスは、病人を癒し、悪霊にとりつかれた人から悪霊を追い出し、律法違反者や貧しい人の友となり、彼ら・彼女らと共に生きられました。その結果権力者によって十字架につけられたのです。イエスは、神を愛し、隣人を自分と同じように愛するという律法のめざすくびき、重荷を徹底的に負われました。関根正雄さんが「イエスご自身が律法の重荷を負ってたおれてくださった方」というのは、イエスが律法の成就者・完成者であるということではないでしょうか。

 

  • 「「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのものとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で、謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、軽いからである」(28-30節)というイエスの招きによって、私たちはどのような安らぎが得られるのでしょうか。

 

  • このイエスの招きの言葉を聞くも者は、注意深くこの言葉を聞かなければなりません。イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのものに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃいますが、私たちから重荷をすべて取り去るとは言われません。
  • もし私たちがこのイエスの招きの言葉を、私たちから重荷をすべて取り去ってくれるものとして聞くとすれば、おそかれ早かれ私たちはイエスに幻滅して、イエスのもとから立ち去ってしまうに違いありません。
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  • あの「永遠の命を受けるためには何をしたらいいのですか」と、エスに質問した富める若者が、イエスに全財産を貧しいものに施してわたしに従ってきなさいと言われて、悲しい顔をして立ち去ったようにです。

 

  • エスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃっておられるのです。私たちから重荷をすべて取り去るというのではなく、わたしのもとに来て休みなさいと仰っているのです。

 

  • 重装備の重い荷物を背負って山登りする人は、休み休み山を登っていくわけですが、休む時は荷物を降ろし、体の緊張を和らげ、水を飲んだり、深呼吸をしたりして、山登りを一時中断して、体力の回復をはかります。

 

  • 無理して休憩をとらずに重い荷物を背負って登り続けたら、途中で体が消耗しきって、どうにもこうにも登ることが出来なくなってしまうかもしれません。適当な休みを取ることは山登りにとっては必要不可欠です。

 

  • これは私たちの人生においても変わりありません。休みも取らずに、神を愛し、隣人を自分のように愛するという律法の重荷を負ったまま歩み続けると、どこかで倒れてしまいます。プレッシャーの強い現代社会を生きる私たちの中には、倒れるまで休みが取れなかったという人もいます。その意味でも、休むことは私たちにとって大変大事なことです。

 

  • エスは、先ず「休ませてあげよう」と言われます。そして次に「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われます。

 

  • 「イエスは、わたしたちから重荷をすべて取り去るとはいわれません。わたしたちがこの生を生きる限り、律法を負うが故の重荷でもある人生のさまざまな労苦を避けることはできません。しかしながら、イエスのもとに行き、その教えと、生き方を学ぶとき、わたしたちが日々担う荷物を、全く異なったものとして受け止めることができるようになります。それがイエスの軛を負うということの意味です」。

 

  • エスのくびきを負い、イエスに学ぶ者は安らぎを得る、と言われています。この安らぎは、イエスのくびきと荷という重荷を負うてイエスと共に歩む者は、重荷を負うて生きることの中に永遠の生命を発見することができるからです。永遠の生命とは、永遠に意味ある生と、鈴木正久さんは言いました。私たちの負っている、神を愛し隣人を自分のように愛するという、律法の重荷によって、すべての人の解放と喜びである永遠の命につながっていることを確信することが許されるならば、それこそ私たちの真の安らぎではないでしょうか。イエスのもとで休む時、私たちはそのイエスの福音の喜びによって、疲れが癒され、魂に休みが与えられて、希望を取り戻せるのです。イエスによって再生、再び活力を与えれるのです。そして再び重荷を負って歩むことができるのです。

 

  • 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのものとに来なさい。休ませてあげよう。  れば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、軽いからである」
  •                                 (28-29節)
  •   わたしは柔和で、謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうす
  • 祈ります。
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