なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(19)

 支援会の通信第22号の原稿をまとめる作業に時間がかかり、しばらくこのブログに手を入れるこ

とができませんでした。以下は1月20日(日)の礼拝説教です。


  「完成するために」  マタイ5:17―20、2019年1月20日船越教会礼拝説教、


旧約聖書詩篇19編8節以下には、神が私たち人間に「かく生きよ」と要求する定めとして、律法の素晴

らしさが歌われています。


・「主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。/主の命令は

まっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清く、目に光を与える。/・・・・・/金にまさり、多くの純金に

まさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」


・この旧約詩人が、これほどまでに律法の素晴らしさをほめたたえているのは、何故でしょうか。私は律

法の本来の要求が、人の命と生活の保障にあったからだと思います。


十戒の後半をみますと、そのことがよく分かります。安息日厳守は本来日常の厳しい労働からの解放と

しての休みを意味しました。父母を敬えは、年を重ねて働くことができなくなった父母にちゃんと食事を

与えなければならないという教えです。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣

人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。これらの戒めは皆、私たち一人一人の人

間の人権と生活の保障を意味します。


・旧約の詩人が、これほどまでに律法の素晴らしさをほめたたえていることに、新約聖書特にパウロ書簡

に親しんでいる者は驚かれるかもしれません。何故ならパウロ的なキリスト教理解は律法からの自由にあ

るからです。ガラテヤの信徒への手紙2章15節以下にそのことがはっきりと記されています。


・「・・・人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたし

たちはキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義とし

ていただくためでした。・・・・わたしは神に対して生きるために、律法に対して律法によって死んだので

す。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありませ

ん。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラ2:16,19-20)。


・このガラテヤの信徒への手紙と先ほど司会者に読んでいただいたマタイによる福音書の箇所と比べてい

ただければ、その違いは明らかでしょう。マタイによる福音書では、「わたしが来たのは律法や預言者

廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためでなく、完成するためである」(5:17)と言われてい

ます。つまりマタイによる福音書では、イエスが来たのは、律法を成就、完成するためだというのです。


・そして終末の時まで、「律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな

掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それ

を守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」と言われているのです。


・さらに「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決

して天の国に入ることはできない」とまで言われています。


・このことは、マタイ福音書のイエスの律法についての教えは、律法から自由なパウロ的なキリスト教

も違い、また律法の字面を形式的に守ることを大切にしているファリサイ主義とも違って、律法が本来意

図している神の要求が満たされなければならないことを語っているのです。その意味で、律法で「かく生

きよ」と、神が命じている定めを行う行為がここでは問題になっています。


・では、律法が本来命じている神の要求とは何なのでしょうか。わたしたちは、律法の専門家が、イエス

を試そうとしてイエスに尋ねた、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」という質問に、

エスが何と答えたかを知っています。第一には、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あな

たの神である主を愛しなさい」です。第二は、第一と同じように重要であると言って、「隣人を自分のよ

うに愛しなさい」です。


・マタイによる福音書では、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(22:40)と言われ

ています。


・もう一度今日のマタイによる福音書の記事の最初に戻りたいと思います。マタイによる福音書のイエス

は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、

完成するためである」と言っているのです。ということは、イエスは、わたしたち全てが、すべての人に

命を与えてくださり、またその全ての命ある一人一人を大切にして下さっている神を心から愛し、自分と

同じように隣人を愛することを、わたしたちに先立ち、またわたしたちに代わって、完成するためにわた

したちのところに来てくださったというのです。


・「自分と同じように(隣人を愛する)」と言われています。


・マタイの山上の説教のでは、今日の5章17節と7章の12節が、枠組みのようになっています。7章12節に

は、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預

言者である」と言われています。ここにも「律法と預言者」という言い方が出てきて、5章17節と7章12節

は「律法と預言者」という共通した言い方によって5章17節から7章12節までの全体の枠組みとなっている

のです。その7章12節に「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と言わ

れています。これは「自分と同じように隣人を愛しなさい」の言い換えと見てよいでしょう。


・そうすると、人に何をしてもらいたいのかは、それこそ人によって異なるのではないでしょうか。少な

くともイエス時代のユダヤ社会では、イエスもイエスの下に集まった人々も、「命と生活が守られる」と

いうことがしてもらいたいことだったのではないでしょうか。しかし、命と生活が守られている人にとっ

ては、自分のしてもらいたいことは、たとえば、もっとセレブな生活がしたいということなのかもしれま

せん。何か生き甲斐が欲しいということなのかも知れません。


・つまり、もっとセレブな生活が欲しいとか、生き甲斐が欲しいとかいう、その人がしてほしいと思うこ

とは、聖書で言われている「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」とい

う「人にしてもらいたいと思うことは何でも」と、隔たりがあるのではないでしょうか。


・聖書では、「命と生活」の保障を意味していると思います。先ほど触れましたように、十戒の内容も、

人に関する定めは命と生活の保障です。人の命や生活が保障されるためには、そのための物を奪ってはな

らないということが中心になっています。


・イエスはその律法の完成者なのだから、イエスに従う者もまた律法を実践する、そのすべての人の命と

生活が守られる人間解放の歩みという義において、律法学者ファリサイ派の人々の義にまさっていなけれ

ば、あなたがたは決して天の国に入ることはできないと言うのです。


・律法学者ファリサイ派の義である律法遵守は、自己救済だったのではないでしょうか。それによって自

分が救われるためです。しかし、彼らの義に優っているイエスの義は、神を愛し、自分のように隣人を愛

する、愛による自分と隣人のすべての人の救済ではないでしょうか。


・そのことは創世記の神による人間創造の物語によっても明白です。神がアダム一人ではなくイブを造っ

たのは、人間が他者との交わりにおいて愛し合うためです。人間は互いに愛し合うことによって神の愛を

現わしていく存在なのです。他者である隣人がいなければ、人は愛し合うこともできません。愛し合うこ

とのできない人間は、人間本来の存在理由を失ってしまっているに等しいのです。


・神の定めとしての律法である、「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」という命への道から外

れて、そのために与えられた財を分かち合うことなく、奪い合って自分さえよければという競争社会を生

み出した人間は、その魂を、富(金)と力に売り渡してしまったのです。人と人とが奪い合い、殺し合

う、資本と権力が支配する競争社会では、貧富の格差が大きくなり、貧しい人々は見棄てられて行かざる

を得ません。


・先週礼拝後の懇談の時にWさんもおっしゃっていましたが、現在世界の富の偏在は極端になっていま

す。「貧困撲滅に取り組む国際NGOオックスファム』は2017年1月に、世界で最も裕福な8人が保有する

資産は、世界の人口のうち経済的に恵まれない下から半分にあたる約36億人が保有する資産とほぼ同じ

だったとする報告書を発表した」と言われます。この事実は、いかに現代の社会が「律法」を無視して、

富を互いに奪い合うゲーム社会になっているかを示しています。


新自由主義経済は、ある人々を保護する法や政策を取り去って、すべてを自由競争にするもので、グ

ローバルな経済競争を加速させるものです。安倍政権もその方向に進んでいますので、このままいけば、

日本もますます格差社会になっていかざるを得ません。


・律法は全ての人が分かち合い、支え合って、一人一人の命と生活を大切にしてく、「神を愛し、自分の

ように隣人を愛する」社会をめざします。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思って

はならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われたイエスに従って、この競争社会に

抗って、互に愛し合う社会の形成に力を尽くしていきたいと願います。


・祈ります。

・神さま、今日何の幸いか、健康を与えられて礼拝に集うことが許されましたことを心から感謝いたしま

す。かつて賀川豊彦は、貧困の現実を直視し、協同組合を起こし、助け合いの道を具体的に示しました。

格差社会の中に生きる私たちにも、人と人とが支え合い、分かち合っていく道が求められています。神

さま、どうぞその道を模索し、他者と共に創り出していくことができますようにお導き下さい。この格差

社会の中で見棄てられようとしている人々を支え、助けて下さい。そのために他者である隣人を自分のよ

うに愛する人に、私達を導いてください。今日礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人

一人の上にもあなたの佐々江と導きをお与えください。この祈りをイエスさまのお名前によって祈りま

す。
                                        アーメン。