なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒へ手紙による説教(11)

8月8日(日)聖霊降臨節第12主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」          (ローマ5:5)

③ 讃美歌     205(今日は光が)

www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-205.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編57編2-12節(讃美歌交読詩編61頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙2章12-16節(新約275頁)

     (当該箇所を黙読する)

 

ローマの信徒への手紙2章12-16節(日本訳) 

 12:

新共同訳: 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。

口語訳:  そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。

バルト訳: 律法から離れて罪を犯した者は、律法から離れて滅びるであろう。律法の眼前において罪を犯した者は、律法によって裁かれるであろう。

田川訳:  すなわち、律法なしで罪を犯した者は、律法なしに滅びる。律法において罪を犯した者は、律法によって裁かれることになる。

岩波訳:  実際、律法なしで罪を犯した者たちはすべて、律法なしに滅びるであろうし、律法のうちにあって罪を犯した者たちはすべて、律法によってさばかれるであろう。

本田訳:  律法とは無縁の人が道をふみはずしたなら、律法とは関係なく滅び、律法に属する人が道をふみはずしたなら、律法にしたがって断罪されるのです。

クランフィールド:  というのは、律法を知らずに罪を犯した人々すべて、律法を持っていなかったにしても同じように滅びるとはいえ、律法を知っていて罪を犯した人々すべて、律法によって裁かれるであろうからである。

 

13:

新共同訳: 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。

口語訳:  なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。

バルト訳: なぜなら律法を聞く者が神の前に義なのではなくて、律法を行う者が義と宣せられるであろうから。

田川訳:  神のもとでは、律法を聞いた者が義人なのではなく、律法を行なう者が義とされるからだ。

岩波訳:  なぜならば、律法を〔ただ〕聞く〔だけの〕者たちが神のもとで義なる者たちなのではなく、むしろ律法を行なう者たちが義とされるであろうからである。

本田訳:  神から見て、律法をつつしんで聴く人が解放を生きる人なのではなく、律法を実践する人が解放を生きる人なのです。

クランフィールド:  というのは、律法を聞く人々が神の前で義しいのではなく、むしろ律法を行なう人々が義とされるであろうからである。

 

14:

新共同訳: たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。

口語訳:  すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。

バルト訳: さてもし律法をもたない異邦人が、自然のままで、律法の命じることを行なうということが生ずるとするなら、かれらは律法をもたなくても、自分自身が律法なのである。

田川訳:  もしも律法を持たない異邦人がおのずと律法のことを行なうのであれば、律法を持たなくても自分が自分にとって律法なのである。

岩波訳:  律法をもたない異邦人たちが、自然のままで律法の〔命ずる〕ことがらを行なう時には、それらの者たちは、律法をもたないながらも、自分たち自身が己にとっての律法なのである。

本田訳:  律法を持たない世俗の民が、自然に律法にかなったことを行なっている場合、その人たちは律法を持たなくても、律法はその人たちのもとにあります。

クランフィールド:  というのは、生まれながら律法を持たない異邦人たちが、実際には律法の命じることを行なうならば、彼ら自身が、律法を持っていなくても、彼ら自身にとって律法であるからである。

 

15:

新共同訳: こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。

口語訳:  彼らは律法の要求がその心に記されていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互いにあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。

バルト訳: このような人たちは、律法によって要求された行為を提示する。すなわちかれらの心に書きしるされていることを(そのさいかれらの良心とかれら相互に訴えあったり、弁解しあったりするおもいとが、その証人となるのである)、

田川訳:  彼らは律法の業が自分たちの心に記されているということを示している。そのことを彼らの良心が証言する。互いに告発したり弁護したりする彼らの議論もまたそのことを証言する。

岩波訳:  これらの者たちは、自分たちの心に書かれた律法の業を示しているのであり、彼らの良心は〔そのことを〕共に証ししている。そして〔彼らの〕心の思いが互いに訴え〔合っ〕たりするのである。

本田訳:  こういう人たちは、自分の心に記されている律法を行動で表現しているのです。すなわち、それぞれ賛成反対の要素をつき合わせて、自分の心によしとするところを行なっているわけです。

クランフィールド:  彼らは、律法の要求するわざが彼らの心に書かれていることを実際に示す。そして〔そのことを〕彼ら自身の良心は、彼らに証明するであろう。そして彼らの思いは互いに訴え、あるいは弁明さえするであろう。

 

16:

新共同訳: そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

 

口語訳:  そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。

バルト訳: すなわち神が(私の救済の音ずれによると)キリスト・イエスによって人間の隠れた事柄に判決を下す、その日に提示する。

田川訳:  神がキリスト・イエスを通じて私の福音に応じて人間たちの隠れたところを裁く、その日には。

岩波訳:  〔そのことは、〕私の福音に従って〔言えば〕、神が人間の隠れたことがらを、キリスト・イエスをとおしてさばかれる日に〔、明らかにされるであろう〕。

本田訳:  キリスト・イエスによってもたらされた、わたしが告げるこの福音に照らして、日々、神は人々の隠れたところを裁いておられるのです。

クランフィールド:  私が宣べ伝える福音に従えば、神が、人間の隠れたことをキリスト・イエスをとおして裁く日に。

 

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  371(このこどもたちが)

www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-371.htm

⑨ 説  教   「わざによる審き」      北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 「神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられます。・・・なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。」(2章6節、11節、口語訳)

 

  • これが前回扱ったロマ書2章6-11節に語られていた、私たち一人一人の人間の行為、業について、神はかたより見ることはないというパウロの確信です。

 

  • 神は、私たち一人一人の行為、業、業績を、偏見を持った目では見ない。公正な目で一人一人の行為をみて、それに裁きを下す、というのです。神さまはそういう公正な方なんだ。そう思えると、私たちは何か安心するというか、ほっとするものを感じることができるのではないでしょうか。

 

  • 人間が人間を、偏見を持った目で裁くときに冤罪が生まれることは、さまざまな冤罪事件が証明しています。冤罪事件とまでいかないとしても、私たちは日常的に他者からの偏見の眼差しを浴びているのではないでしょうか。自分が他者からの偏見の眼差しを受けるだけでなく、自分自身も他者に対して同じ偏見の眼差しを注いでしまっているのではないでしょうか。

 

  • 私の言動は、今でも性差別に敏感な人からすると、女性に対する差別を微妙に含んでいるように思われています。「慈郎さんの言い方は微妙よね」と、ある人から言われたことがあります。そんな私でも、連れ合いと結婚してから、それ以前の男中心主義的な日本文化を内面化した男権主義者の私は大分変えられたと思っています。亡くなった連れ合いは、若い時には、私が男をかさにして不当なことをすると、黙っていないで攻めてくると言うか、とことん話し合おうとしてきました。私がどんなに逃げても、捕まえて、追及するというか、納得するまで引き下がらないのです。結局、最後は私が非を認めて、仲直りすることが多かったのです。その連れ合いとの関係の中で、男と女が対等・同等な者として生きるというのは、具体的にどういうことなのかが少しずつ分かってきたように思っています。その連れ合いが帰天して1年半が経とうとしています。私も今年12月が来ると満80歳になります。このまま生きながらえていくとすれば、人は年を重ねるに従って、先祖返りするものでしょうから、折角少しは克服したと思われる男権主義者に戻ってしまうのを恐れています。

 

  • 終わりの日に私たち一人一人の一つ一つの行為が神によって裁かれるという終末の審判があるとすれば、脛に沢山の傷を持つ私などは、永遠の罰を受けるのが落ちです。

 

  • その意味では、神が、私たち一人一人が行ったことに対する公正な裁きをするということは、怖いことでもありますが、同時に、すべての人が一人一人この世でしたことが、最後は神によって公正に裁かれるということは、その神の裁きから逃れることができる人は、誰もいないわけですから、不公平がなくて、すがすがしくさえ感じられるのであります。

 

  • さて、今日のロマ書の2章12節から16節は、新共同訳には訳されていませんが、ガル(なぜなら)という接続詞で導入されていて、前の段落、とりわけ11節の帰結への注釈となっています(川島重成)。つまり、11節の「なぜなら、神には、かたより見ることがないからである」(口語訳)の注釈として、12節から16節までが記されているということです。

 

  • そこで、パウロは、12節以下で「律法を与えられているユダヤ人」と「律法を持たない異邦人」という対照において語っているのであります。ロマ書では、ここではじめて「律法」(トーラー)について触れられています。ある面でこの個所には、パウロの律法観が記されているとも言えます。

 

  • ご存じのように、パウロは、ダマスコ途上で復活の主イエスに出会って、それまでの教会の迫害者としてのパリサイ的な律法学者から回心して、非ユダヤ人である「異邦人」にイエス・キリストの福音を伝える使徒になりました。

 

  • パリサイ的な律法学者であった時のパウロは、他のユダヤ人同様に律法は特別な存在でした。ユダヤ人が、他の民族と自分たちとの差別をつける決定的な要因は、律法を持っていると考えていたことにあります。ユダヤ人にとって、律法は、単なる神の戒めというだけではありません。モーセを通して神の律法が与えられて以来、ユダヤ人は、自分たちは神との間に特別な関係を持った、神に選ばれた契約の民であるというように信じていました。律法こそは、神が自分たちと特別な契約を結んで下さった証拠であると信じていたのです。ですから、律法を与えられて、彼らは、自分たちだけが、神の御心が分かっているのだと、思うようになっていたのです。

 

  • そういうユダヤ人と非ユダヤ人である「異邦人」を意識しながら、パウロはここで、「律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。」(12節、口語訳)と言っているのであります。このパウロの言い方は、ユダヤ人の誇りである律法が、まるであってもなくてもいいような言い方です。ユダヤ人がこれを読んだら、到底受け入れられなかったに違いありません。

 

  • パウロは、ここで、律法を持っているからと言って、ユダヤ人は神の裁きから自由であるわけではない。また、律法を持たないからと言って、非ユダヤ人である「異邦人」に、神の裁きがユダヤ人以上に厳しく加わるというわけではない。ユダヤ人も非ユダヤ人である「異邦人」も、等しくおのおのの行為・業によって神の公正な裁きを受けるのだ、と言っているのであります。

 

  • ユダヤ人に対して、パウロは、ここで、このように語っています。

 

  • 「律法において罪を犯した者は、律法によって裁かれることになる」(12節、田川訳)。

 

  • 律法(トーラー)は、ユダヤ人にとっては、神が「かく生きよ。そうすれば命に至る」と言われる神の定めでした。そのベースはモーセを介して神から与えられた十戒にあります。御存じのように十戒の前半の戒めは、神への愛を示す戒めです。後半の戒めは、自分を愛するように隣人を愛する隣人愛を示す戒めです。私たちが神を愛し、隣人を自分のように愛することによって、命に至る道を生きることができる。そのことを示しているのが十戒という律法なのです。

 

  • 「神のもとでは、律法を聞いた者が義人なのではなく、律法を行なう者が義とされるからだ」(13節)、田川訳)。律法を持っているからと言って、また、ただ律法を聞くだけでは、神の前に義なる者とは言えない。律法を行なう者が義とされるからだ、とパウロは言うのです。

 

  • しかし、イエスパウロの時代のユダヤ教は、民衆の生活の場ではパリサイ的なユダヤ教になっていて、律法の細分化が進んでいました。「安息日を聖とせよ」という十戒の第四戒からいくつもの細かな戒めが出来ていて、たとえば「安息日には瀕死の病人以外には病人を癒してはならない」という戒めです。福音書でイエス安息日に片手の萎えた人を癒した時に、この戒めにイエスが違反したと言って、人々はイエスを糾弾しました。そのとき、イエスは「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行なうことか、命を救うことか、殺すことか」(マルコ3:4)と、人々に言われると、人々は黙ってしまったと言われています。律法を行なっているのは、イエスで、イエスを糾弾した人々は、律法の番人になっているだけで、律法を行なうことを大切にしてはいなかったということです。

 

  • パウロが、ここで「神のもとでは、律法を聞いた者が義人なのではなく、律法を行なう者が義とされるからだ」(13節)、語っていることも、安息日に片手の萎えた人を癒したイエスと同じことを言っているのではないでしょうか。

 

  • 次に、非ユダヤ人である「異邦人」に対して、パウロは、ここで、このように語っています。

 

  • 「律法なしで罪を犯した者は、律法なしに滅びる」(12節、田川訳)。

 

  • ユダヤ人である「異邦人」が罪を犯せば、自分は「かく生きよ。そうすれば命に至る」という律法を与えられていないのだからと言って、許されるわけではありません。律法なしに滅びる、神に裁かれるのです。

 

  • しかし、パウロは、律法を持っていない「異邦人」が「おのずと」(自然のままでも)、律法に記されている通りのことをする場合がある、と言うのです。ですから、律法を知らないからということが、言逃れにはならない。律法を持たないなら持たないままに、自分自身が律法になるからである、と言うのです。

 

  • 「もしも律法を持たない異邦人がおのずと律法のことを行なうのであれば、律法を持たなくても自分が自分にとって律法なのである。彼らは律法の業が自分たちの心に記されているということを示している」(14節、15節前半、田川訳)。

 

  • どうしてそうなのでしょうか、という疑問に対して、パウロは二つの事実を証拠として挙げています。一つは、「そのことを彼らの良心が証言する」(15節)です。律法の要求が心に記されていることは明らかな事実だが、良心も、これを共に証明しているというのです。もう一つはのことは、そういう行為をする時に、われわれは、自分の中に、まるで二人の人が住んでいるかのように、一方が非難し、他方が弁明するということを経験する、と言うのです。「互いに告発したり弁護したりする彼らの議論もまたそのことを証言する」(15節)と。

 

  • 「この事実を否定できないではないか、そういう戦いの結果、われわれは敗れて、ついに罪を犯すのではないか、それはわれわれの気持ちだけのことであろうか、あるいは、良心だけのことであろうか、いや、もっと堅固な根拠があるのではないか、それは、神の律法が生きている証拠ではないか、こう言って、パウロは、事実に即して、異邦人も、神の律法の影響下にある、というのであります」。

 

  • 「そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう」 (16節、口語訳)と。

 

  • 「わたしの福音」は、神の福音、イエス・キリストの福音と違うものではありません。同じです。自分が受け入れて、信じて、解放されて、自分の生きるための唯一の望みとなった福音ということです。ですから、福音を信じた人は、その福音を「わたしの福音」と言うのです。パウロも、ここでそのような意味で、「わたしの福音」と言っているのです。

 

  • ここでは、裁きに関することが、福音によって明らかになる、と言われています。「神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう」と言われていますが、これは終末の裁きという未来のことだけではなく、現在すでにそのことが明らかになっているということでもあります。「福音こそは、最も痛烈に、人間の罪を暴き、処理するものであります。だからこそ福音は、最も公平に、適確に、正直に、人間を評価するものである、と言うのであります。それが、律法を誇る者であれ、律法を聞くだけで行わぬ者であれ、律法が与えられなかったゆえに軽蔑されている者であれ、福音の前には、かたよることなく、正体があばかれるのであります。神は、福音において、最も正しいお方であることを、自らお示しになっているのであります」。

 

  • その神の真実に照らされて、私たち自身がいかに不真実であり、神の裁きによって滅ぶべきものであるかが明らかになるのであります。私たちはそこで一度自分自身に死んで、イエス・キリストの者としてよみがえる。その繰り返しの中で、私たちは平和と和解を造り出す者に変えられていくのではないでしょうか。その意味で、イエス・キリストの福音には、罪びととしての私たちに対する裁きが含まれていることを見失ってはなりません。

 

祈ります。

  • 神さま、新型コロナウイルス感染拡大が収まりません。今日も教会で皆が集まって礼拝をすることができません。メール配信による自宅での分散礼拝になりますが、それぞれ礼拝をもって新しい週の歩みに向かうことができますようにお導き下さい。
  • 今日、あなたを礼拝することを喜び、あなたをほめたたえることを心の喜びとさせてください。この日、肉体だけが回復されることなく、どうか霊においても新たにされることができますように。千々にわかれた魂の力をふたたび一つに結び合わせ、自らを統一することができますように。日常の営みから一歩離れて、人生の意味と目的とを考えることができますように。
  • 今月は、去る6日が広島の原爆の日、明日の9日は長崎の原爆の日、そして15日は敗戦記念日です。二度と再び悲惨な戦争を起こさないという決意を新たにし、平和を造り出すために、私たちが少しでも働いていくことができますようにお導きください。
  • 今も世界の中で戦争状態にある地域がありますが、敵対する人々に暴力ではなく、話し合いによる解決の道を与えて下さい。紛争や貧困による難民の方々には、その命と生活が守られる支援が与えられすように。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     516(主の招く声が)

www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-516.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。