なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒へ手紙による説教(10)

8月1日(日)聖霊降臨節第9主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」          (ローマ5:5)

③ 讃美歌     196(主のうちにこそ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-196.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編71編:14-19節(讃美歌交読詩編76頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙2章6-11節(新約275頁)

     (当該箇所を黙読する)

(今回から説教テキストの日本訳をいくつか並記したものを入れておきます。)

ローマの信徒への手紙2章6-11節(日本訳) 

 

6:

新共同訳: 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。

口語訳:  神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられます。

バルト訳: 〔なぜなら、人間が測られ尺度はこの世のものではないからである。それは神自身と同様に永遠である。それは神自身である。神は人間の中につねにかわらず、かれに対する、かれだけに対する率直さを求める。神はわれわれを廃棄することによってわれわれを基礎づける。かれはわれわれを殺すことによって、生きたものとする。われわれはみな変化させられることによって、救われる。最後のラッパが鳴り響くときに。問題なのはそういうことである。義人もまた、この神の前に立つ。他ならぬ義人、信仰者が神の前に立つ。この〕神は、おのおのに、その業にしたがって報いるであろう。

田川訳:  神はそれぞれにその業績に応じて報い給う。

岩波訳:  その神は、その人の業に従って、それぞれに、報われるであろう。

本田訳:  神はおのおのの生き方にしたがって対応されます。

クランフィールド:  その神は、その人のわざに従って、各々に報いるであろう。

 

7:

新共同訳: すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、

口語訳:  すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、

バルト訳: よき業の特徴である忍耐強さをもって、神の栄光、ほまれ、不朽性を求める者には、永遠の生命をもって報いる。

田川訳:  すなわち、良き業を忍耐して行ないつつ栄光と名誉と不滅とを求める者には、永遠の生命を。

岩波訳:  〔すなわし神は、〕一方では、善き業を忍耐しつつ行ないながら栄光と栄誉と不朽なるものを〔熱心に〕求める者に対しては、永遠の生命を〔報いとして与え〕、

本田訳:  低みからめげずに立って親身に人と関わり、輝きと尊厳と不滅を求める人たちには永遠のいのちを与え、

クランフィールド: 〔彼は、〕不動の忍耐によって善いわざを行いつつ栄光と栄誉と朽ちないものを求める人々には、永遠の生命を〔与えるであろう〕。

 

8:

新共同訳: 反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。

口語訳:  他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。

バルト訳: しかし奴隷的心情をもち、真理に従順でなく、不従順にしたがう者には、怒りと憤りが待ちうけている。

田川訳:  利己心からの者、真理に従わずに悪に従う者には、怒りと憤りが。

岩波訳:  他方では、分争心〔にかられた〕者たちや、真理に従わずに不義に従っている者たちに、怒りと憤りとを〔与えられる〕。

本田訳:  対抗心にかられて真実に背を向け、解放を妨げることに加担する人たちには、怒りと憤りを向けられます。

クランフィールド:  しかし、利己的で真理に従わず不義に従う人々には、怒りと憤りがあるであろう。

 

9:

新共同訳: すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシャ人にも、苦しみと悩みが下り、

口語訳:  悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、患難と苦悩とが与えられ、

バルト訳: したがって悪をなすどの人間の心にも、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも苦悩と困難とがある。

田川訳:  悪を行なうすべての者には、第一にユダヤ人に、またギリシャ人にも、患難と困難があり、

岩波訳:  悪を為す人間のすべての魂の上には、ユダヤ人の魂をはじめとしてギリシャ人の魂の上にも、患難と苦悩が〔与えられ〕、

本田訳:  人にひどい仕打ちをする者には、ユダヤ人をはもとよりギリシャ人に対しても、すべて苦難と行きづまりがあり、

クランフィールド:  悪いことを行うすべての個々の人の分け前として、第一にユダヤ人にそしてギリシャ人にも、患難と苦悩があるであろう。

 

10:

新共同訳: すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシャ人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。

 

口語訳:  善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。

バルト訳: しかし善をなすどの人にも、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも栄光とほまれと平安とがある。

田川訳:  善を行なうすべての者に、第一にユダヤ人に、またギリシャ人にも、栄光と名誉と平安がある。

岩波訳:  ユダヤ人をはじめとしてギリシャ人にも、すべて義を為す者の上には、栄光と栄誉と平安とが〔与えられる〕。

本田訳:  人に親身に関わる者には、ユダヤ人はもとよりギリシャ人に対いても、すべて輝きと尊厳と平和が与えられます。

クランフィールド:  しかし、善いことを行うすべての人には、第一にユダヤ人にそしてギリシャ人にも、栄光と栄誉と平安が〔あるであろう〕。

 

11:

新共同訳: 神は人を分け隔てなさいません。

口語訳:  なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。

バルト訳: なぜなら神においては人をかえりみることはないからである。

田川訳:  神には、顔により片寄りみることがないからでる。

岩波訳:  なぜならば、神のもとでは〔人の〕顔を偏り見るということはないからである。

本田訳:  神は人を分けへだてしません。

クランフィールド:  というのは、神には偏り見ることはないからである。

 

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  419(さあ、共に生きよう)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-419.htm

⑨ 説  教   「人をかたより見ない神」     北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 今日は平和聖日になりますが、ローマの信徒への手紙の続きの箇所から説教をしたいと思います。ですまら、今日の説教は平和聖日の説教としてはふさわしくないかも知れませんが、ご容赦いただきたいと思います。

 

  • させ今日はローマの信徒への手紙2章6節から11節を扱いますが、6節は5節の続きになっています。5節は新共同訳ではこうなっています。≪あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう≫。

 

  • バルトは、ローマの信徒への手紙の私訳で、この6節の前に次のように比較的長い説明文を加えています。≪なぜなら、人間が測られる尺度はこの世のものではないからである。それは神自身と同様に永遠である。それは神自身である。神は人間の中につねにかわらず、かれに対する、かれだけに対する率直さを求める。神はわれわれを廃棄することによってわれわれを基礎づける。かれはわれわれを殺すことによって、生きたものとする。われわれはみな変化させられることによって、救われる。最後のラッパが鳴り響くときに。問題なのはそういうことである。義人もまた、この神の前に立つ≫。そして6節が続き、≪この神は、おのおのに、その業にしたがって報いるであろう≫となっているのであります。 

 

  • ≪この神は、おのおのに、その業にしたがって報いるであろう≫(6節)は、自分を除外して考えるならば、大変好ましい言葉に思えるかも知れません。何故なら、現実の社会では、「正直者は馬鹿を見る」と言われていますように、正直な人は損をしているように思われる面があるからです。むしろ悪に加担していながら、この世の中では富を得たり名声を得たりして、よい思いをしている人がいるからです。

 

  • 「報いる」は「罰する」と言い換えられると思いますので、≪この神は、おのおのに、その業にしたがって罰するであろう≫ということであれば、悪に加担している人はのうのうと生きていくことができないわけですから、むしろ望ましいことではないかと思えるからです。

 

  • けれども、≪この神は、おのおのに、その業にしたがって罰せられるであろう≫と、≪おのおのに≫と言われているわけですから、この業による神の裁きは自分自身にもくだされるということになります。自分自身は世間で悪人と言われている人とは違うとしても、神の裁きに耐えられるほどの人間であるかと言えば、とてもそうは思えないのです。

 

  • そのように≪この神は、おのおのに、その業にしたがって報いる=罰するであろう≫は、

全ての人に向けられている言葉で、この言葉が向けられない特権的な人間は誰もいないということであります。

 

  • わたしたちは一人一人違いがあります。神から与えられた賜物である能力も違いますし、生まれも育ちも違います。小さい時から貧し生活を強いられて、大人となった人もいますし、小さいときから裕福な家に育って大人になった人もいます。誰一人同じ人はいません。人間は千差万別です。

 

  • ですから、「おのおのに」従って裁かれるというのは、当然のことと思われます。けれども、パウロはこの個所で人間を二種類の人間に分けています。新共同訳では、≪忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者≫(7節)と≪反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者≫(8節)という二種類の人間です。前者は≪すべて悪を行う者≫(9節)と、後者は≪すべて善を行う者≫(10節)と言い換えられています。

 

  • 普通善人というと、あの人のような人だと思える人が、頭に浮かんでくるのではないでしょうか。人を蹴落とすことなく、黙々と自分の与えられた条件の中で不平も言わずに、誠実に生きている人のことが思い浮かぶのではないでしょうか。

 

  • けれども、ここでパウロが言っている善人とは、≪忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者≫のことなのです。「忍耐強く」という言葉が、「辛いけれども我慢して」という意味だとすれば、心から喜んで善を行うということにはならないように思われます。

 

  • パウロは、ここで使っている「忍耐」という言葉を、彼の手紙の中で度々使っていますが、パウロは「忍耐」を「希望」と結びつけているのであります。ロマ書8章18節以下は、被造物のうめき、霊の初穂をいただいていると言われていますキリスト者のうめき、そして聖霊である霊のうめきについて記されているところです。その中の25節に、≪わたしたちは、目に見えないものを望んでいるのなら忍耐して待ち望むのです≫とあります。ここでは忍耐と希望が一つとなって、「忍耐して待ち望む」と言われているのであります。

 

  • 「・・・キリストの十字架によって、罪を贖われた者が、自分は何もできない者であることを、百も承知していながら、キリストがすでに、自分を救って下さったことを信ずるゆえに、その約束を頼みとして力の限りに励むのであります。どんな困難があっても、その望みがあるから力を尽くすことができるのであります。それは、結果から見れば、忍耐に違いありません。しかし、内容から言えば、あるいは動機から考えれば、希望なのであります」(竹森)。

 

  • ですから、≪忍耐強く善を行う人≫を、パウロは≪栄光と誉れと不滅のものを求める者≫と言い換えています。栄光は元々意見という意味の言葉です。誉れは評価という言葉です。栄光と誉れを求める者は、神の御心にかなうことを、ひたすらに念願している者のことを意味していると思われます。

 

  • 「不滅のもの」(朽ちぬもの)を求める者については、第一コリントの15章の復活の記事が参考になります。15章32節で、≪もし死人がよみがえらなかったら、「わたしたちは飲み食いしようではないか。明日もわからぬ命なのだ」≫と言われています。

 

  • 「われわれはみな、明日死ぬかも知れない生命なのであります。もしも、死の後の希望がなかったなら、何のために苦労して愛を行う必要があるのか。好き勝手な生活をして、大いに飲み食いした方がいいではないか、というのであります。聖書は甚だ現実的であります。どんな思想よりも徹底しています。朽ちぬものを求める確信のない生活には、忍耐はない、善はないというのであります」。

 

  • 次に、悪を行う者、すなわち不義に従う者のことが書かれています。そういう者には、神の怒りと憤りが示されるというのです。悪を行う人とはどういう人のことでしょうか?

 

  • 新共同訳で≪反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者≫と言われています。「反抗心」と訳されている言葉は、原文ではエリセイアスという語で、口語訳では「党派心」、田川訳では「利己心」と訳されています。このところを「党派心にかられ、真理ではなく不義に従う者」と読めば、(他民族の人を穢れた民であると差別し、自分たちの優位性を主張した)ユダヤ人や、(他民族を文明から隔てられた未開人として差別し、自分たちの優位性を主張した)ギリシャ人のような人を意味したとも考えられますが、パウロは、むしろ全ての人間に通じるものとして、ここで語っているように思われます。

 

  • 何かの力を頼み、何かの力に引きずられる人間の姿です。仲間を求め、その仲間との結びつきで悪に踏み切る人間の姿です。吉本隆明は、通常人間は人殺しなどできないが、何かの機縁(きっかけ)があれば、誰でも人殺しをする可能性があるものだ、という趣旨のことを言っていたと思います。徒党を組むということであれば、戦争のように、国家がその戦争を正当化して、他国の人を殺せと命じるわけです。そのような時は、かつての日本もそうですが、日本人という徒党を組んで人殺しをするわけです。「戦争に行くと、あんなにおとなしいと思った人が、とんでもない残虐な人殺しをする」というようなことが起こってしまうのです。

 

  • 「何かの力を頼みとし、何かの力に引きずられる人間の姿は、明らかであります。善を行うということは、本来孤独なことであります。しかし、それは、人間との関係から言うことであって、その孤独はいつも神と共にある、神とだけ共におる孤独である、ということができるのであります。それに対して、悪を行なうのは、何かの力に引きまわされている生活である、と申せましょう。真理に従わないで不義に従うという句は、真理には説得されないで、不義に説得される、と訳してもいいかも知れません。自分の心の支えを、神以外のものに求めようとする者の姿でありましょう。してみれば、悪と言うのは、いわゆる悪いことだけではないかも知れません。神以外のものに望みをおくことから生まれることでありましょう」。

 

  • ≪神は人を分け隔てなさいません≫(11節、新共同訳)。口語訳は、≪なぜなら、神には、かたより見ることがないからである≫。クランフィールドは、≪というのは、神には偏り見ることはないからである≫と、11節を訳しています。「分け隔てない」とは「偏見がない」ということです。偏見は、顔のよしあしで人を判断することです。つまり、神は表面だけを見て、事を判断されるはずがないということです。富があろうがなかろうが、地位があろうがなかろうが、知識があろうがなかろうが、ユダヤ人であろうとなかろうと、ギリシャ人であろうとなかろうと、そういう表面的な事だけで、神は人を判断しないということです。

 

  • しかし、神は人を偏り見ないと、いくら言っても、何をもってそう判断できるのかということになってしまいます。聖書は、神は人を偏り見ないということを、何よりもイエスの十字架の出来事において示しているのではないでしょうか。

 

  • エスの十字架において、全ての人は罪びとであることが明らかにされたわけです。讃美歌306番の歌詞で、「あなたもそこにいたのか、主が十字架についたとき。ああ、いま思いだすと 深い深い罪に わたしはふるえてくる」と歌われているように、イエスの十字架の前では、誰一人罪から自由な人はいないのです。と同時に、イエスの十字架において、すべての人の罪は贖われ、全ての人が神の救いに与ることができるのです。

 

  • 「十字架の救いは、すべての者が罪人であることを明らかにし、十字架の救いは、すべての人が、救われることを信じさせてくれるのであります。つまり、十字架を信ずる時に、神が、どんな人の罪も、かたよりみることなく見とおすことがおできになり、どんな事情の人にも同じように、最大の救いをお与えになることが分かるのです。ですから、われわれは、十字架の救いを受けた時に、はじめて、神がかたより見ることは決してせられないことが分かるのであります」。

 

  • エスの十字架の出来事には、全ての人に偏らない神の平等があるのです。すべての人は、イエスの十字架の出来事によって己の罪を告発されます。「あなたもそこにいたのか、主が十字架についたとき。ああ、いま思いだすと 深い深い罪に わたしはふるえてくる」と。信仰者は、その己の罪を悔改めて、自らを神に委ねます。イエスの十字架の出来事が、罪の告発であると共に、その罪からの救済の出来事であることを知らされているからです。

 

  • 先ほどバルトの6節の前にある説明文を紹介しました。その中でバルトは、「神は人間の中につねにかわらず、かれに対する、かれだけに対する率直さを求める」と言っています。神が我々に求める率直さとは、悔改めではないでしょうか。バルトは続けて、「神はわれわれを廃棄することによってわれわれを基礎づける。かれはわれわれを殺すことによって、生きたものとする。われわれはみな変化させられることによって、救われる」と言っています。悔い改めは、古き人間である己の廃棄であり、死であります。イエスの十字架によって私たちは死んで、イエスの復活によって新しい人として、神の子どもとして、イエスの兄弟姉妹として生きるようになったではないでしょうか。

 

  • ≪(神は)忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり≫(8節)、≪すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシャ人にも、栄光と誉れと平和が与えられます≫(10節)。アーメン。

 

祈ります。

  • 神さま、新型コロナウイルス感染拡大が収まりません。今日も教会で皆が集まって礼拝をすることができません。メール配信による自宅での分散礼拝になりますが、それぞれ礼拝をもって新しい週の歩みに向かうことができますようにお導き下さい。
  • 神さま、現在の世界は、平和と和解とは程遠い、争いと分断による敵対関係が蔓延しているかのようです。また、人間の開発が自然を破壊し、感染症によるパンデミックだけでなく、気候変動による災害が、世界の各地に起こっています。あなたが私たちに生きるために与えて下さった地球環境を、私たち人間の驕りが破壊しようとしています。
  • 神さま、私たちに悔い改めの心を与えてください。あなたと共に生き、隣人と共に生き、平和を造り出す者として、私たち一人一人を造り変えてください。
  • 現在の破滅な世界の中で苦しむ人々に助けみ手を与えて下さい。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌   18(「心を高くあげよ!」)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-018.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。