なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒へ手紙による説教(9)

 25日(日)の船越教会の会堂での礼拝は、コロナ感染拡大のためお休みにしました。しばらく会堂での礼拝はお休みします。日曜日の早朝にメール配信していますその日の礼拝式と説教原稿が、このブログに掲載しているものです。このところブログの掲載は日曜日のこのメール配信のみになっていますが、休んでいます船越通信、鶴巻通信をそろそろ又出して、このブログにも掲載して行こうかと思っています。

 

7月25日(日)聖霊降臨節第8主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」          (ローマ5:5)

③ 讃美歌     17(聖なる主の美しさと)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-017.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編107編1-9節(讃美歌交読詩編119頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙2章1-5節(新約274頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  60(どんなにちいさいことりでも)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-060.htm

⑨ 説  教   「人を裁く者」    北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 2章1節に、≪だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている≫(新共同訳)と言われていますが、ここにでてくる「あなた」が誰なのか、異邦人なのかユダヤ人なのか、はっきりと明記されていません。2章17節には、≪ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、・・・≫と記されていますので、ここの「あなた」はユダヤ人であることが分かります。2章1節以下にでてくる「あなた」も、異邦人ではなくユダヤ人のことを言っていると考えられています。

 

  • ユダヤ人は自分たちを神に選ばれた民として聖なる者であり、穢れた「異邦人」とは根本的に違うのだと考えていました。ある種の中華思想といったらよいでしょうか。中国人の中にも自分たちの民族が世界の中心であり、一番なのだという考え方があります。戦前の日本人も、天皇制国家によって、神国日本という幻想を信じて、自分たちは特別な民族だと考えていました。右翼の中には今でも日本をそのような国と考えて、日本民族が特別なのだという民族主義的な考えをもっている人もいます。

 

  • 川崎を中心とする在日コリアンに対するヘイトが収まらないのは、現在の日本には国粋主義的な右翼の人がまだ相当いるということを意味します。そういう人が存在するということは、その人たちが自分たちで何か仕事をして稼いでいるか、そういう人を政治的に利用するためにお金を出す人がいるかのどちらかです。両方あって、そういう右翼の人たちの活動がなりたっているのだと思われます。

 

  • 自分は正しい、相手は間違っているという構図の中で、人は人を裁くのではないでしょうか。

 

  • ユダヤ人の特権意識は、彼ら彼女らが信じるユダヤ教という宗教から来ています。そういう意味では、ユダヤ人の特権意識は、彼ら彼女らの宗教的な自意識と言えます。そのようなユダヤ人の宗教的自意識は、新共同訳では旧約聖書続編に収められています『知恵の書』(『ソロモンの知恵』)15章1節から6節に明瞭に表現されています。

 

  • ≪神よ、あなたは慈しみ深く、真実な方。/怒るに遅く、すべてを治める憐れみ深い方。//わたしたちは、たとえ罪を犯しても、/あなたのもの、あなたの力を知っている。//でもわたしたちは罪を犯さない。/あなたに属することこそ全き義、//あなたの力をわきまえることこそ不滅のもと。//人間の思いつきも、//さまざまな色で塗りたくられえた肖像も、/わたしたちを迷わすことはなかった。//愚かな者はそれを見て欲望をそそられ、//魂の欠けた、命のない肖像にあこがれる。//偶像を造る者、あこがれる者、あがめる者は、//悪を愛する者たちで、/このようなむなしい希望に似つかわしい。≫

 

  • 「ここでは異教の偶像崇拝を裁き、自分たちはそのような愚かさから根本的に解放されているというユダヤ人の敬虔な者たる自画像が明らかに見て取れます」(川島重成)。そのように他人である異教徒を、偶像を崇拝し、悪を愛する者と断定し、裁いているのですが、自分自身も裁かれることは弁えていないユダヤ人が、2章1節から5節の今日の箇所で問題とされているのであります。

 

  • けれども、この自分自身は棚上げにして、他人を裁くという行為は、ユダヤ人に限ったことではありません。ある面で、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、すべての人に共通しているものだと言えるでしょう。2章1節に≪すべて人を裁く者よ≫と言われていますが、この「すべて」は、文脈ではユダヤ人を意味しますが、ユダヤ人だけではなくすべての人を意味しているとも考えられます。バルトはこの個所を、≪それゆえに、人間よ。あなたがだれであろうと、あなたの判決について弁解の余地はない。・・・≫と訳しています。

 

  • しかも我々が人を裁くやり方は、大変巧妙であって、一見裁いているとは思われない場合でも、よく考えると裁いているということもあります。

 

  • 異邦人の罪について書かれていました1章18節から32節のところでも、32節にこのように書かれていました。≪彼らは、このようなことを行なう者が死に値するという神の定めを知りながら、自分でそれを行なうだけでなく、他人の同じような行為も是認しています。≫(新共同訳)。この個所を、ある人は<これが(人を裁く)一つの態度であります。しかし、それに気がつかないような顔をして、自分のさばかれることを免れようとしているだけであります>と言っています。人を裁く人は、自分は裁かれない、裁かれることを免れている、正しい人だという自意識を持っているというのです。

 

  • 2章1節後半には、≪あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからである。≫と書かれています。これは、<自分たちも罪を犯しながら、他の人が罪を犯すのを裁いているということであります。別に深く考えているわけではない、と言うかも知れません。しかし、それだけに、最も深く身にしみついた仕方であります。他の人がしている時には、痛烈に悪口を言う、しかし、自分は、そんなことは忘れてしまったように、平気で同じことをするのであります。全く矛盾であります。しかし、それこそ、さばくゆえにさばかれる人間の正体ではないでしょうか>。

 

  • 2節、3節に、≪神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。≫(新共同訳)と記されています。正しく、というのは、真理に基づいてということです。神は真理に基づいてわたしたち人間を裁くと言うのです。自分を棚上げにして、他人を裁き、同じことをしているあなたは、真理に基づいてわたしたち人間を裁く神の裁きを逃れられると思うのですか、と言うのです。

 

  • 人を批判し、裁いておいて、自分だけは安全地帯にいるなどということはあり得ないと言うのです。神の裁きを逃れられる人間は、誰もいないのです。ところが、わたしたちは自分を中心に生きていますので、神の眼差しから見て自分はどんな人間なのだろうかという視点をなかなか持つことができないのです。ユダヤ人は自分たちは敬虔な神に選ばれた民だと信じていたわけですから、その自分たちが、「異邦人」と同じように神に裁かれるとは考えられなかったのでしょう。もう自分たちは神の救いに与っていて、神の裁きから解放されていると思っていたのかも知れません。これはユダヤ人の信仰による錯覚であって、信仰者と言えども、その行為は最後まで真理に基づく神の裁きを受けなければなりません。

 

  • ところが、≪あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか≫(3節後半)と言われ、確かにそうだと思ったとしても、神の裁きをなかなか切実には感じられないところが私たちにはあるのではないでしょうか。<神のさばきと言ってみても、目には何もうつっては来ないのです。神の怒りと言われてみても、明日の日のパンに困るわけではありません。何とかうまくいっているのであります。どこかにまだ余裕があるのです。さし迫った感じがしないのであります。そこで、われわれは、至極呑気に考えているのであります。まだ暇がある。まだ、何か細工する時間があるということが、気分を楽にし、切迫したものを感じない原因になっているのであります>。そんな感じではないでしょうか。

 

  • そのような私たちに対して、パウロは畳みかけるように、4節でこのように記しています。≪あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛寛容忍耐とを軽んじるのですか≫(新共同訳)と。口語訳では、新共同訳の「慈愛と寛容と忍耐」は「慈愛と忍耐と寛容」と訳せれています。

 

  • その口語訳に基づくと、慈愛は、もともと役に立つとか、善良であるという意味から、親切であることを言います。忍耐と言われているのは、差し控えるという言葉です。特に、敵意をあらわすことを差し控えるということ、罰を与えることを思いとどまっているということです。寛容と訳されているのは、気が長いということです。容易に腹を立てないということです。

 

  • ですから、4節は田川訳ではこうなっています。≪それともあなたは神の豊かな善良さ執行停止気の長さなどを安く見積もっているのか。神の善良さはあなたを悔改めへといざなうものだ、ということも知らずに≫。

 

  • ≪神の裁きを逃れられると思うのか≫と言われても、なかなか切迫感を感じらないで、やり過ごしているのは、私たちが勘違いしているからではないか、神が私たちへの裁きの執行を停止して、気長に待っているのは、私たち自身から悔い改めることを待っているのであって、決して神の裁きから逃れられることは無いと言うのです

 

  • 神が裁きの執行を停止して、私たち自身から悔い改めるのを待ってくださっている神の親切を、私たちは誤解しているのかも知れません。神に裁かれてしかるべき行為を積み重ねている私たちですが、神はそのような私たちを大目に見てくれるのだと。そして自分は棚上げにして、他人を裁き、私たちは平然としているのではないでしょうか。

 

  • しかし、わたしたちへの裁きを執行停止して、私たち自身から悔い改めることを待ってくださっている神の親切に気づくならば、私たちは自分が弁解の余地がないことが分かるのではないでしょうか。他の人を裁くどころではないと。

 

  • それでも神の親切を軽んじるならば、≪あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう≫(5節、新共同訳)。

 

  • 創世記3章の堕罪物語が示していますように、私たち人間は、自分の過ちを認めて、謝罪し、悔改めることが難しいものです。最初の人間アダムとエバも、罪を犯したとき神から、食べるなと命じた木の実を取って食べたのかと言われると、アダムはエバに、エバは蛇に、責任転嫁したのです。自分の過ちを認めて、悔改めて、赦されて共に生きることが難しいのです。ですから互いに裁き合ってしまうのです。

 

  • 先日送られて来た『時の徴』を読んでいましたら、「週刊朝日」の記事「隣人を愛せなかった聖職者たち――東京神学大で相次ぐパワハラ訴訟」の紹介がありました。「イエス・キリストの教えを世に広める牧師を養成する神学校の役割、その代表的な東京神学大学(東神大/東京都三鷹市)で、パワーハラスメントなどをめぐり、学長や一部の教授らへの訴訟が複数起こされ、さらには別の訴えの準備も進んでいる。学長らはパワハラ行為を否定しており、裁判で争っている。隣人を愛するどころか、身内との「殴り合い」の様相を呈している」というのです。神学校という信仰者である人間の集まりではありますが、人間である以上起こり得ないとは言えない事象ですが、残念なことです。

 

  • 今日の聖書の箇所を噛みしめ、他人を裁き、自己正当化に居直る誘惑から自由になって、神の裁きの刃を自分自身に向けて、悔改めて、赦されて生きる罪人として、他者と共に生きることができますように。

 

祈ります。

  • 神さま、新型コロナウイルス感染拡大のために、また今日からしばらく教会で皆が集まって礼拝をすることができません。メール配信による自宅での分散礼拝になりますが、それぞれ礼拝をもって新しい週の歩みに向かうことができますようにお導き下さい。
  • 神さま、パウロが鋭く指摘していますように、私たちは、自分を棚上げして、他の人を裁いている者であります。そのことによって、私たちはお互いの間に分断と孤立化を推し進めてしまっています。この現実は世界大におきましても、身近な者同士の間におきましても変わりありません。
  • 神さま、あなたの裁きの刃を自分自身に向けることができますように、私たち一人一人をお導き下さい。そして私たちが悔い改めて、赦された罪人として、互いに支え合って生きていくことができますようにお導き下さい。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌   305(イエスの担った十字架は)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-305.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。