なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒へ手紙による説教(13)

22日の日曜日早朝船越教会のメンバーにメール配信した時に、下記のように記しました。

 

皆さまへ

 おはようございます。

今日も生みの苦しみの説教ですが、

ご容赦ください。

全国的にコロナウイルス感染拡大が広がっています。

厳しい状況がしばらく続くと思いますが、

最善の注意を心がけながら、お過ごしください。

新しい一週の皆さまお一人お一人の歩みの上に主の支えを

お祈りいたします。

                 北村 慈郎

 

8月22(日)聖霊降臨節第14主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでNさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」          (ローマ5:5)

③ 讃美歌      204(よろこびの日よ)

www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-204.htm

 

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編90編1-12節(讃美歌交読詩編100頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書    ローマの信徒への手紙2章25-29節(新約275頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  471(勝利をのぞみ)

www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-471.htm

 

⑨ 説  教     「割礼を受けても」        北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 先日、帰天した連れ合いの書棚にあった、キリスト者の写真家でジャーナリストの桃井和馬さんの『妻と最後の十日間』という本を読んでみました。この本は、連れ合いが桃井さんの講演会に行った時に購入した本ではないかと思います。本の見開きにある本の題名の下に、「7.15 桃井和馬」という著者のサインがあるからです。

 

  • この本は題名通り、桃井さんの妻が41歳の時に職場のトイレでくも膜下出血で倒れ、入院した病院で亡くなるまでの10日間のことが、夫である桃井さんを通して記されている本です。

 

  • 桃井和馬さんもお連れ合いもクリスチャンですが、その中に、お見舞いに来てくれたある牧師と一緒に来てくれた数人の知り合いの振る舞いについて書かれています。そのところを、少し長くなりますが、引用してみます。

 

  • <その牧師は病室に入るなり、妻のベットの横に立ち、室外まで響く大きな声で、聖書を読み始めたのだ。それまで病室にいた地元の友人たちは、突然始まった「礼拝」に驚き、退出してしまった。牧師は情熱的な祈りを捧げた後、妻のベットを囲むように一緒に来た知り合いたちを並べた。『私には多くの方を看取った経験があるから、わかるんです。脳にダメージがあっても絶対に声は聞こえている。だから、みなさん順番に綾子さんの手をしっかり握って、耳元で彼女の名前を呼びかけてください』。(その牧師の呼びかけに応えて、妻に声をかけたり、手を握ったり、中には妻の頭に手をかざし、エネルギを送るのだという。)・・・・そうこうしているうちに、牧師は全員に讃美歌を配り、歌う準備をはじめた。もう限界だった。私は彼の行動を制止した。その瞬間、牧師の顔に戸惑いが浮かんだ。なぜ私が、賛美歌を歌うことを止めたのかが、うまく理解できなかったようだ。幸い、すでに面会時間を数分過ぎていた。だから、『面会時間が過ぎてお見舞いは禁止されています』と病院の正当なルールを楯に帰ってもら>ったというのです。

 

  • この牧師と一緒に来た数人の人は、集中治療室で命の灯が消えようとしている病者を前にして、大きな声で聖書を朗読し、祈り、病者に声をかけ、体をさすったり、頭に手かざしをし、そして賛美歌を歌うことは、クリスチャンとして病者になすべきことをしているのだという確信をもっているのではないかと思います。自分たちはクリスチャンとしてよいことをしている。正しいことをしていると。

 

  • 桃井さんは、この牧師と一緒に来た数人の人たちの振る舞いに、牧師が全員に讃美歌を配り、歌う準備を始めた時に、もう限界だと思って、面会時間が過ぎているからと言って、止めてもらったと言うのです。牧師や一緒に来た数人のおそらく信徒の自己満足的で、形式主義的な振る舞いに辟易としたからではないかと思います。

 

  • こういう牧師や信徒は、信仰を自明の出来事として理解し、死と闘っている瀕死の病人の前でも、自分の信仰者としての振る舞いである聖書を朗読し、祈り、賛美歌を歌うことが最善のことなのだと思い込んでいるのではないでしょうか。このようなクリスチャンは、ある意味ではローマの信徒への手紙2章で、パウロが批判しているユダヤ人と同じではないでしょうか。

 

  • 今日のロマ書の箇所では、ユダヤ人の割礼が問題になっています。その前では、律法が問題になっていました。律法とはモーセの律法のことです。律法は、神からモーセを通して特別にユダヤ人に与えられたものです。このことがユダヤ人に、自分たちは「特別に神に選ばれた」民だという意識を与え、ユダヤ人に律法を持っていることを誇りに思わせました。

 

  • 割礼という儀式もまた、神から特に選ばれた民、すなわち、神の聖なる精神の宿っている者に与えられた徴であると、ユダヤ民族は誇りにしていました。そういうあなたがたが、神の律法を守らず、神の意思に反したことをやっているのはどういうわけなのか、むしろ律法もなく割礼もない異邦人が神の意思にかなった行いをしているのなら、異邦人の方があなたがたより優れているではないかと、パウロは、形式主義ユダヤ人を責めているのです。

 

  • 25節~27節を田川訳で読んでみます。≪割礼は、あなたが律法を実践するなら、役にも立とう。しかし律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼となったのだ。だが、無割礼(の者)が律法の義の規定を守るならば、その者の無割礼は割礼へと算入されるのではなかろうか。そして、生まれながら無割礼で律法を全うしている者が、文字と割礼によりながら律法の違反者となっているあなたを裁くことになる≫。

 

  • パウロは、ユダヤ人が律法を守らず、割礼の精神に背いている様子を見て、またユダヤ人以外の異邦人が神の意思にかなっている点を見て(バルトは、この異邦人を異邦人キリスト者と見ています)、異邦人を褒め、そして堕落した同胞のユダヤ人を一層厳しく糾弾し、追撃しているのが、この箇所であります。

 

  • 内村鑑三も、「律法」を「福音」と改め、「割礼」を「洗礼」と改めれば、ユダヤ人は今日の(キリスト教の)信者に当たり、異邦人は未信者に当たると言って、このように述べています。<基督信者とは誰ぞ、洗礼を受けて教会員となりし者必しも信者ではない、内部的に神の聖旨を行う者—-それが基督信者である(よし形式上の形と名は何であっても)、真の洗礼は霊(聖霊)の恩化に浴せし事を云ふのであって、儀文の形式に従って受けしものではない、故に心の洗礼のみが真の洗礼であって、その誉れは人に由らず神に由る、人の判断如何に係らず神は之を賞(め)で給ふのである。人は外を見エホバは内を見る、外を見る人の軽侮又は数ふるに足らず、内に向かってなさるる神の嘉賞のみ貴いのである>。

 

  • 28節~29節も田川訳で読んでみます。≪すなわち、表面においてユダヤ人である者が(ユダヤ人)であるわけではなく、表面における、肉における割礼が(割礼)であるわけでもない。隠れたユダヤ人こそが(ユダヤ人)であり、文字における(割礼)でなく、霊における心の割礼こそが(割礼なの)である。それが誉められているのは人間によってではなく、神によってなのだ≫。

 

  • ここでパウロは、<本当のユダヤ人とは、・・・隠れたところにおいて、人の判断ではなく神の判断により誉れに値するものとして見出され、また事実誉れを受けるべきものとして誉れを受けるものであろう>(バルト)と言っているのです。バルトは続けて、<しかし、それこそ実にキリスト者のことです>と言って、このように述べています。<たとえ異邦人の出であろうとユダヤ人の出であろうと、神の恵みをたたえ、それゆえにその裁きを承認し、神の断罪の前から逃げ出さず、そこから自分を救い出そうとつとめるのではなく、かえってそれに自分をゆだね、彼に死の判決を下すもののあわれみを誇る、キリスト者のことであろう>と。

 

  • バルトは、ここで、イエス・キリストの福音を聴き、洗礼を受けたから、その人はキリスト者であるとは言っていないのです。<神の恵みをたたえ>と言って、イエス・キリストにおける神の恵みの出来事をたたえる信仰を第一にあげているのです。そして次に、<それゆえその裁きを承認し>と言って、イエス・キリストにおける神の恵みの出来事は私たち人間の罪に対する神の裁き・審判であることを認めることであると言うのです。イエス・キリストにおける神の恵みと罪に対する神の裁きは一つであると言うのです。そしてその<神の断罪の前から逃げ出さず、そこから自分を救い出そうとつとめるのではなく、かえってそれに自分をゆだね、彼に死の判決を下すもののあわれみを誇る>、それがキリスト者であると言うのです。神の断罪に自分をゆだね、罪人である自分に死の判決を下す神のあわれみを誇るとは、イエスの十字架と共に罪人としての自分に死に、イエスの復活の命に与って新しく神に向かって生きる者に変えてくださる神の憐みを誇るということではないでしょうか。

 

  • パウロは、≪自分はアブラハムの子孫、ベニヤン族の一員である≫(フィリピ(3:5)」と言って、ユダヤ人であることを非常に誇りに思っていた人です。ユダヤ人は、一般に異邦人を人とも思わず、大いなる偏見を持っていました。ところがパウロは、ユダヤ人も異邦人も同じく神の前に罪人であることを認めたのです。さらにそれ以上に、異邦人の中には律法や割礼を持たないにもかかわらず、彼らの良心によって、律法の規定するところを実行している者があることを公平に認め、彼らを律法を実行しないユダヤ人よりも上に置いたのです。

 

  • 問題は、外見や形式的なことではなく、その人が神の御心を実際に生きているかどうかということです。律法を与えられ、割礼を受けているユダヤ人だからと言って、そのユダヤ人が皆、律法が示す神の御心を生きているかどうかは分かりません。実際には、神の御心に反しし生きていながら、律法を持っているから、割礼を受けているから、自分たちは神に選ばれた民なのだと誇り、そうでない異邦人を蔑むユダヤ人が、圧倒的に多かったのではないでしょうか。

 

  • そのことは、「福音」を与えられ、「洗礼」を受けたキリスト者の場合にも、変わりありません。「福音」を与えられ、「洗礼」を受けたキリスト者だから、すべてが神の御心を実際に生きているどうかは分かりません。ユダヤ人と同じように、圧倒的に多くの人は、「福音」を与えられ、「洗礼」を受けたことを誇りとし、実際には神の御心に反する生き方をしている人が多いのではないでしょうか。

 

  • ある方はこのように言っています。<諸君! 注意し給え。我々は我利我利亡者だと見て差し支えない。我々人間は、非常にセルフィッシュで、非常にわがままです。自分のことは善く見えて、他人のことは悪く見えます。・・・どんな善人でも、非常にセルフィッシュです。自分は非常に自己中心的な人間だと思っていれば間違いありません。自分は、少しは公平な判断をする人間だなどと思ったらいけません。パウロは、死ぬ前に「我は罪人のかしらなり」(テモテ前書1:15)と言いました。自分は善人だと思ったら間違いです。自分は、少しは善行しているなどと思ったら、それは大間違いであります。永遠の生命を知り、来世が見えた時に、我々は自分の本当の姿が見えてきて、このような聡明な見方ができる。永遠の滅びから救うということ、それが聖書の中心問題であります。聖書全六十六巻は、このことを論じています>。

 

  • パウロはコリントの信徒への手紙一の15章で復活について記しています。そのところで、パウロは、≪肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません≫(15:50)と語り、終末において、≪死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです≫(15:52-58)と語っています。

 

  • 終末において、肉と血からなる私たちがキリストの復活体に変えられるという勝利の希望によって、それにふさわしく今を生きるキリスト者の労苦が、決して無駄になることはないと確信することができる。そのようにパウロは語っているのです。私たちが神の御心にふさわしく生きるのは、そのようにして可能なのではないでしょうか。

 

祈ります。

 

  • 神さま、新型コロナウイルス感染拡大が収まりません。今日も教会で皆が集まって礼拝をすることができません。メール配信による自宅での分散礼拝になりますが、それぞれ礼拝をもって新しい週の歩みに向かうことができますようにお導き下さい。
  • 神さま、聖書の深い真理が、どうぞ私たちのものとなることができますように、私たち一人一人を導いて下さい。
  • 新型コロナウイルス感染のために苦しむ者、豪雨による水の被害やがけ崩れで苦しむ者、また抑圧的な支配者によって人権が侵されて苦しむ者、貧困によって苦しむ者が、その苦しみから解放されるために、あなたの導きによって多くの人の働きが生まれますように。その働きに私たちもそれぞれの形で参加できますように。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     510(主よ、終わりまで)

www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-510.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。