なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(64)

10月2(日)聖霊降臨節第18主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

③ 讃美歌  202(よろこびとさかえに満つ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-202.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編96編1-9節(讃美歌交読文106頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙15章7-13節(新約295頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    542(主が受け入れてくださるから)

        (奏楽なし)

⑨ 説  教  「すべての人に」           北村慈郎牧師

  祈  祷

 

ローマの信徒への手紙(以下ローマ書)の説教を長い間続けてきましたが、ローマ書の内容からしますと、今日のところ(15:7-13)が最後になります。15章14節以降は、新共同訳の表題によりますと、「宣教者パウロの使命」(15:14-21)、「ローマ訪問の計画」(15:22-33)、「個人的な挨拶」(16:1-24)、「神への賛美」(16:25-27)となっていて、ローマ書の中心的な内容であるパウロの福音理解からしますと、付録のような部分になります。

 

今日の箇所の最初に「だから」と言われています(7節)。7節を田川訳でみますと、<だから、キリストもまたあなた方を神の栄光へと受け入れて下さったように、あなた方も互いに受け入れよ>となります。この「だから」は、14章1節~15章6節において述べられたローマの教会のキリスト教徒の中にあった、信仰的に「強い者」と「弱い者」との仲たがいの問題から引き出されるべき結論は、<キリストもまたあなた方を神の栄光へと受け入れて下さったように、あなた方も互いに受け入れよ>という命令に要約されることを示しています。

 

「あなた方も互いに受け入れよ」という命令の根拠として、「キリストもまたあなた方を神の栄光へと受け入れて下さった」ことを挙げています。ローマの教会にはユダヤキリスト教徒と異邦人キリスト教徒がいたと思われます。ここでは、その両者を指して「あなた方」と言われているのです。キリストがユダヤキリスト教徒を受け入れてくださると共に、異邦人キリスト教徒も受け入れてくださったと言うのです。キリストによって受け入れられたという一つのベースの上に、ユダヤキリスト教徒も異邦人キリスト教徒も共にあるのだから、互いに受け入れよと命ぜられているのです。

 

ローマの教会を日本基督教団という教会に置き換えて、先週行われた教団総会をユーチューブ傍聴して感じたのは、この<キリストもまたあなた方を神の栄光へと受け入れて下さったように、あなた方も互いに受け入れよ>というローマ書の言葉は、日本基督教団という教会においては無視されているのではないかということです。日本基督教団という教会においては、一部の人たちが意見を異にする同じ日本基督教団の教会に所属する他の人たちを排除しているように思われるからです。今回の教団総会で選出された議長、副議長、書記の三役と教職常議員17名の内16名が東京神学大学出身者で占められました。日本基督教団には教団立神学校としての東京神学大学の他に認可神学校として同志社大学神学部、関西学院大学神学部、日本聖書神学校、農村伝道神学校がありますが、それらの神学部・神学校出身者は一人だけです。これは教団総会議員の55%を占めるグループが常議員選挙を全数連記にして選挙をするために、他の45%の様々な立場の人たちの意志が反映されないからです。これは明らかに一部の人たちが他の人たちを排除していることを意味しています。

 

<キリストもまたあなた方を神の栄光へと受け入れて下さったように、あなた方も互いに受け入れよ>という命令に、日本基督教団という教会は背いていることになります。これは私たちがイエス・キリストを信じて信仰を持って生きることが、実際にはなかなか難しいことを示しています。この日本基督教団の他の人たちを排除する一部の人たちを批判することはできますが、それでは、自分自身がこの<キリストもまたあなた方を神の栄光へと受け入れて下さったように、あなた方も互いに受け入れよ>という命令に従って生きているかと問われたら、生きているとはっきり言えるだろうかと思うのです。信仰によって生きるということは、私たちの中に主イエスが生きていて、私たちを導いて下さっている時に可能なのでしょう。主イエスに従って生きる者でありたいと思います。

 

8節は「わたしは言う」という荘重な宣言で始まっています。その8節以下12節までは、7節の命令に対する裏づけを与えていると言えます。しかも8節以下ではローマ教会の「強い者」と「弱い者」の関係は少なくとも表面から消え、ローマ書全体を通してより根本的なユダヤ人と異邦人の関係がそれに取って変わります。そのように代わっていくに当たっては、ローマ教会における「強い者」と「弱い者」の葛藤が、実際には異邦人キリスト教徒とユダヤキリスト教徒の間の葛藤であったからだろと思われます。同時にパウロがこのローマ書の本論を終えるに際して、ローマ教会の現実問題を一般化して、ローマ書の中心テーマである義認、あるいは神の義と恵みの問題として、しかもユダヤ人と異邦人の救いの希望の問題として、終末論的な展望において意識的に捉え直そうとしていたからでもあろう(川島)と、言われています。

 

8節―9節前半にはこのように記されています。<つまり私が言っているのは(わたしは言う)、キリストは神の真理の故に割礼に仕える者となったのだが、それは父祖たちの約束を確かなものとするためであったということ、及び、異邦人は(神の)憐みの故に神に栄光を帰するようになったということである>(田川訳)。

 

このところで、<「神の真理」の故にキリストは割礼(ユダヤ人)に仕える者となったのに対して、「神の憐れみ」の故に異邦人は神に栄光を帰するようになった>と言われていますが、「神の真理」と「神の憐れみ」の違いを、田川さんはこのように言っています。<パウロの「ユダヤ人が優先されるのは、当然の真理である。それに対して、「異邦人」にまで「救い」がもたらされるのは、「真理」の必然ではなく、単に「憐れんで」もらっているのだ…。>と。パウロにはユダヤ人を優先する考えが濃厚にあったということをいいたいのだろうと思います。そういうものがパウロにあったかもしれませんが、ここでパウロが言っているのは、<「神の真理の故に、キリストはユダヤ人に仕える者になった」ということ、「しかし神の憐れみの故に、異邦人もまた神に栄光を帰することができるようになった」、ということの二つだ、という>ことに変わりありません。

 

パウロはローマ書11章30-32節で、異邦人キリスト教徒に向かい、次のように語っています。<あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです>(新共同訳)と。この言葉からしても、パウロは、ユダヤ人も異邦人もすべての人の救いを信じていたことが分かります。

 

  • 9節後半から12節には、4箇所からの旧約聖書の引用が続いています。それはすべて異邦人が神をほめたたえる内容です。
  • 9節後半は詩編18編50節ないしサムエル記下22章50節からの引用。
  • 10節は申命記32章43節からの引用。
  • 11節は詩編117編1節からの引用。
  • 12節はイザヤ書11章10節からの引用。

 

これらの引用は旧約聖書のトーラー(律法)―申命記、預言書―イザヤ書、諸書―詩編の三部すべてからの章句が七十人訳ギリシャ語訳聖書)で引用されています。「このような広範囲から引用しているのには、パウロの福音理解が旧約聖書全体によって備えられているとするパウロ自身の意図が感じられよう」とケーゼマンは言っています

 

12節の引用「「エッサイの根があろう。そして、(そこから)生じる者が諸民族を支配する。諸民族はその者に希望をいだく」(田川訳)はイザヤ書からの引用で、クリスマスにも読まれる箇所です。キリストがおいでになって、イスラエルの王として、異邦人をも支配するというのであります。神に選ばれた民(ユダヤ人)もそうでない異邦人も、この救い主に望みをおくという預言です。

 

これらの引用句に共通なことは、みな、神を讃美することと、その讃美において、ユダヤ人と異邦人が共に喜ぶということです。これが全聖書の証ししていることであり、今読んできた信仰の根拠になっていることであります。

 

最後は13節です。<希望の神が、信じることによるあらゆる喜びと平和とであなた方を満たし、あなた方が聖霊の力によってますます豊かに希望をいだくようにして下さるように>(田川訳)であります。

 

「13節は執り成しの祈りであり、5-6節と対応している。5節が忍耐と慰めの神に向けられたローマ教会の一致への祈願であったのに対して、ここでは12節の最後に出てきた異邦人の希望のモティーフを受けて、希望の神への訴えになっている。ここでパウロは希望の神に「あなたがた」(ローマ教会のキリスト者)をあらゆる喜びと平和で満たし、さらに聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるようにと祈っているが、その喜びと平和そして希望とは、壮大な宇宙論的規模の喜びと平和、万物の救いの希望として思い描いているに相違ない。すなわち、「あなたがた」はその万物の代表者にすぎない。たとえローマ教会の一致といった日常的、具体的な問題が念頭になるにしても、それは終末論的、宇宙論的な地平の中で捉えられているのである。わたしたちもその一部である万物の救いはまだ成就していない。それはあくまでも希望の対象である。しかしその希望を与えられていること自体が、「あなたがた」にとって、つまりわたしたちにとって喜びと平和で満たされることである。そのことを可能にするのがキリストの支配、キリストの現在としての聖霊の力であり、その働きに応答してキリストの支配の下に生きることがパウロの説く義認の信仰の内容であったと言えるのではなかろうか」川島)。

 

「ここまで読んできて気づくことは、先ほども言いましたようにローマ書は、この13節で実質的に終わっていることです。人間の罪の問題から始まって、神の救いの恵みをたたえ、人間の歴史に対する驚くべき洞察を与えたこの手紙が、最後に、教会の中の信仰の強い者と弱い者の争いについてながながと語って終わろうというのです。皮肉にいえば、いかにも結末が貧弱であると言えるかも知れません。しかし、素直にこれを読む人は、その意味の深さに心打たれるでありましょう。まず話が教会の生活で終わったことです。そして次に、まことに日常的な人間と人間との生活、それも、不平等に泣き、羨み、嫉妬し、争いを起こすこの問題で終わっていることです。ここでは、何のけれんもなく、興奮もなく、人間生活を直視しているのです。それがなくて、どうして福音と言えるでしょう。しかも、それを呟くのではなく、これに勝ってあまりある望みを語りながら終わるのです」(竹森)

 

私たちも、今この時代状況の中でキリスト者として、このローマ書で語られている希望をもって歩み続けることができれば幸いに思います。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • パウロはローマ書の内容的に最後のところで、希望の神について語っています。信仰者に与えられている希望は、あなたにある希望です。希望の神であるあなたが、イエス・キリストを通して、この絶望的な現代世界に生きる私たちを導いて下さっていることを信じ続けて生きていけますように、私たちを導いて下さい。そして、イエス・キリストによって与えられている喜びと平和を、私たちが生きていますこの社会の中で証ししてい行くことができますように。
  • 今さまざまな苦しみの中にある人びとを助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     151(主をほめたたえよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-151.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。