なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(31)

1月23日(日)降誕節第5主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 

                            (ヨハネ3:16)             

③ 讃美歌   151(主をほめたたえよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-151.htm

 

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編29編1-11節(讃美歌交読詩編30頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙7章7-13節(新約282頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     403(聞けよ、愛と真理の)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-403.htm

 

⑨ 説  教    「罪・律法・死」        北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 新型コロナウイルス感染が急拡大しています。オミクロン株はデルタ株と違って重症化する率は大分低いようですが、それでも感染者の数が急激に増えていけば、それに従って重症化する人も多くなりますので、安心しているわけにはいきません。十分感染に気を付けながら過ごしていきたいと思います。

 

  • さて、今日も会堂での対面による礼拝は出来ませんが、ローマの信徒への手紙(以下ローマ書)から語りかけを聞きたいと思います。

 

  • パウロがローマ書で語ろうとしているのは、イエス・キリストの福音です。その福音は、私たちが罪と死の支配から解放されて、神と共に、また隣人と共に喜んで生きることができる、という使信、メッセージです。

 

  • パウロは、そのイエス・キリストの福音を、ロマ書1章16節、17節で、短く命題的にこのように記しました。≪すなわち、私は福音を恥としない。それはすべて信じる者にとって、第一にユダヤ人にとって、またギリシャ人にとっても、救いへといたらせる神の力である。何故なら神の義はその中で、信から信へと啓示されるからである。「義人は信から生きるであろう」と書いてあるように≫(田川訳)と。

 

  • パウロは、ローマ書において、「救いへといたらせる神の力である福音を信じて生きる」ことの大切さを、ローマの教会の人々に語っているのであります。けれども、教会のメンバーである信仰者の中には、福音以外のもの、例えば律法を大切にしていたり(ユダヤ主義者)、福音も大切だが律法も大切だと思って、実際にそのように生きている人がいたと思われます。

 

  • パウロはローマ書において、自分のイスパニア(スペイン)伝道のためにローマの教会を足場にさせてほしいという、お願いの手紙を書いているのです。そのためにパウロは自分が信じている福音について、ローマの教会の人々にも共有してもらいたいと思い、16章にも及ぶ長い手紙を書いたのです。1章16節、17節の命題的な言葉だけでは、パウロの思いが伝わらないと思ったからです。

 

  • 福音の中には、それを守って生きれば命に至る、神が「かく生きよ」と命じている律法(誡め)も含まれています。その律法は福音を信じることによってはじめて確立するからです。

 

  • パウロは3章31節でこのように語っていました。≪では我々は信によって律法を無効にするのか。まさか、そんなことはない。律法を確立するのである≫(田川訳)。そして8章2節では、≪何故ならキリスト・イエスにおける生命の霊の法があなたがたを罪と死の法から自由にしたからである≫(田川訳)と言っているのです。ここで「法」と訳されている言葉はノモス(律法)です。

 

  • パウロは、「霊の律法」と「罪と死の律法」の違いをここで語っているのです。「霊の律法」は信(信仰)によって確立される律法です。それに対して、「罪と死の律法」は、律法を通して私たちを罪と死に至らせる律法です。

 

  • パウロは7章5節で、≪我々がまだ肉の中にいた時には、律法を通して生じる罪の情熱が我々の肢体の中に働いていて、その結果我々は死にむかって実を結んでいた≫(田川訳)と言っていました。これがまさに「罪と死の律法」です。

 

  • 「我々がまだ肉の中にいた時」とは、イエス・キリストを信ずる以前の生来の自分です。生来の自分は律法を確立できないどころか、律法によって罪と死に至るのだと、パウロは言うのです。「罪と死の律法」です。

 

  • その上に立って、今日の聖書箇所であるロマ書7章7節で、パウロは、≪では何と言おうか。律法が罪なのか。まさか、そんなことはありえない。だが、律法によらなければ私は罪を認識しなかった。なぜなら、もしも律法が「汝、欲望するなかれ」と言わなかったら、私は欲望なるものを知らなかっただろう≫(田川訳)と語っているのです。

 

  • 生来の私たち人間に罪と死をもたらす律法そのものが罪なのか、とパウロはここで問いを立てて、これまでと同じように(6章1節、15節)「まさか、そんなことはありえない」と、その問いを否定しているのであります。この点について、長い引用になりますが、またバルトの言葉を聞きたいと思います。

 

  • 「律法は(3:21)福音の証言であり、福音がわれわれ人間に来たる形式、莢(さや)である。どうして福音は勧め、警告、指示、誡め、禁止という形体以外の方法で、われわれのところにくるはずがあろうか。この形体において――したがって律法の形体において――パウロ自身、律法を1:18-3:21において、福音によって遂行された、すべての人間に対する裁きの宣教に役立たせた。パウロ自身まさに福音のこのような形体としての律法を、彼のすべての手紙と、従ってまたこのローマ書においても宣べ伝えたのであった。福音の形体としての律法は罪であるどころか、むしろ神の恵みを啓示する形体である。まさにそのようなものとして律法は聖であり、その誡め――その誡めはことごとく――聖であり、義しくかつ善である(12節)。だが、その律法は(そして律法という形体において福音は)、罪の領域に啓示される。それが罪ある人間に与えられ、その目と耳と手に移されると、彼を支配している罪のために、あのまったく別の律法になってしまうのである。人間は、律法が、神の律法として内に含んでいるものによって、すなわち福音によって、さらに律法の中に福音を受けまた把握する信仰によって、この異なる律法から解放されなければならず、また事実解放されるであろう。神が福音の形体としての律法において、ご自身を罪に引き渡し、人間の誤解と悪用にさらすのは、神の卑下に属する。まさに罪ある人間によって悪用された、神の恵みの形体が、人間に対する神の怒りと裁きの道具にならねばならぬということ、しかしまた、この悪用の咎を犯す人間が、そのような悪用された形体においても神ご自身と関わらねばならぬようにさせられ、この悪用された形体においてさえ、神ご自身を侮らせ給わぬ方であるという経験にあずからねばならぬようにさせられることは、神の聖さに属する。そして、神が恵みの形体のこのような悪用を究極的には喜び給わず、それが人間によって悪用される場合、人間の勝手にさせておかず、かえって律法の中に隠されている、イエス・キリストにおける福音を、その汚された莢からも破れ出させ、まさにそのことによって、この莢、この律法をも神の律法として、生命のみ霊の聖い律法として再び成立させ、また新しく啓示されることは、神の憐みに属すると同時に、また神の全能に属することである」(『ローマ書新解』)

 

  • そしてバルトは、「7-11節は律法のこのような悪用を述べ、またそれとともに、どの程度律法が――それ本来罪とはまったく異なるものであるのに――なお、「罪の律法」すなわち人間の罪をまき起こし、増大し、啓示する律法――それからわれわれは福音によって解放されているのだが――となりうるかを解明する」と言うのであります。
  • 7章7節から25節までのこの短い箇所に、一人称単数の「わたし」という言葉が38回出てきます。そのことを指摘して、内村鑑三は「彼(パウロ)はここに何等隠す所憚(はばか)る所なくして自己を有りのままにさらけ出しているのである。実にこれ彼の特徴として注意すべき所である」と言って、7章7節後半以下で、「パウロは自己の罪悪感(罪)の告白をしている」と言っています。

 

  • 律法そのものが罪なのではない。けれども、律法によらなければ、私自身が罪を認めることができなかったのだ、「もしも律法が「汝、欲望するなかれ」と言わなかったら、私は欲望なるものを知らなかっただろう」とパウロは言うのです。「欲望するなかれ」は新共同訳では「むさぼるな」です。これは十戒の十番目の誡めです。

 

  • パウロは、十戒の十番目の誡め「むさぼるな」によって、「むさぼり」が罪であることを知ったと言うのです。8節では、≪罪は(律法の)戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を起こさせた。つまり、律法がなければ罪は死んでいたのだ≫(田川訳)と言っています。

 

  • パウロは9節の前半で、≪私はかつて律法なしに生きていた≫(田川訳)と言っていますので、かつては、自分の内にむさぼりを抱えながら生きていても、それが罪であること、的を外した生き方であるとは気づかなかったと言うのです。≪律法がなければ罪は死んでいた≫というのは、そういうことです。

 

  • そして≪だが、(律法の)戒めが来るにおよんで、罪は生き返り、私は死んだのだ。生命へといたらせる(はずの)戒めがまさに、私にとっては、死へといたらせるものとなった≫(9節後半~11節、田川訳)と言うのです。

 

  • 「罪は、私が律法に出会うことによって生命に目覚め、機会と跳躍版(スプリング・ボード)を見出す。この出会いが起こると、罪は立ち上がり、積極的になり、私を欺き、私自身の罪となり、かくして私自身の断罪の基となる。なぜなら、律法が私に神に向かっていくように要求し、私自身の欲望に抗するように要求する場合、罪は、私をそそのかして私がこの要求を自ら満足させ、自分自身を潔め、義とし、聖とすべきだと思うようにさせるのである。罪は私をそそのかして、自分は、律法において呈示された恵み以上のものであると考えるようにさせ、恵みを押しのけ、神の律法によって私に命じられている信仰によらず、私自身の業、私自身の敬虔、私自身の道徳的業績を神の前にさし出し、そしてそのことによって自分を神に価するものとさせるべきだと勧めるのである。・・・このようなそそのかしにより、また私がこのようなそそのかしに耳を傾けることにより、罪は目覚める。そのことによって罪は行為となり、出来事となる。今やまさに、律法をこのように誤解し、悪用することによって、また私自身の中に住み、今や私自身の責任となった罪によって、私は、神のようになりたいという禁じられた欲望の咎を犯すに至る。そしてまさにそのことにより、そのように欲望する者として――神の誉れに満足し、神の誉れに仕え、その点において私の誉れを持つべきであるのに、実にその場所で、自分の誉れを神の前に持とうと欲することにより――私は死の咎を犯すに至り、私を誘惑しだました罪は私を死に引き渡すに至る」(バルト)のです。

 

  • ≪すなわち、律法は聖く、その戒めも聖く、正しく、善いのである。では善なるものが私にとっては死になったのか。まさか、そんなことはありえない。罪は罪として顕われるために、その善きもの(律法)によって私に対して死を生じせしめたのである。罪が戒めによってはなはだしく罪的になるためである≫(12,13節、田川訳)。

 

  • 内村鑑三は、パウロは、<「我は罪人のうち首(かしら)なり」と数多度(あまたたび)叫び、又「この死の体より我を救はん者は誰ぞ」と幾度も幾度も哀求したことであろう」と言っています。罪に支配されている、己のみじめさを深く自覚した者が、そこから解放して下さる方を真剣に求めるということでしょう。それは、私たちにとっても変わらないのではないでしょうか。

 

  • 「福音を恥としない」という信仰は、私たちが自分の罪を深く自覚し、いかに的を外して生きているかに気づくことによって確かなものになっていくのではないでしょうか。

 

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日はまた、コロナウイルス感染拡大により、会堂での礼拝を持てませんが、メール配信による自宅分散礼拝を持てますことを心から感謝します。
  • 神さま、私たちに自らの罪の深刻さを気づかせ、ただあなたが遣わしてくださった、あなたの独り子イエスを見上げて、まっしぐらに生きていくことができるようにお導き下さい。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌      128(悪は罪人の)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-128.htm

 

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。