なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(20)

 
    「まず仲直りを」  マタイ5:21-26 2019年1月27日(日)船越教会礼拝説教


・先程司会者に読んでいただいた今日の聖書箇所の最初の部分をもう一度読んでみたいと思います。


・「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられてい

る。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う

者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(5:21-22)。


・この「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は・・・・と命じられている。しかし、わたしは言って

おく。」という、主にモーセ十戒である律法に対して、イエスがそれに反対する言い方をするする言葉

が、今日の「殺すな」の箇所を最初にマタイ福音書では6回繰り返されています。そのためにこの個所を

アンチテーゼ(反対命題)と呼ばれることがあります。反対命題ということは、イエスが、「律法遵守を

大切にするユダヤ教支配の社会に対して、『しかし、私は言う』という言い方でもって批判を突きつけ

た」ということを意味していると言えます。しかし、ここの箇所をよく読みますと、新共同訳の表題で、

5章33節以下の「誓ってはならない」と、5章43節以下の「敵を愛しなさい」の二つは確かに反対命題

といってよいと思いますが、その他の4つの教えは、そこで挙げられている律法の徹底というか、「律法

の完成・成就」になっているのであります。今日の箇所もそうですね。


・この点について田川建三さんは、〈律法遵守を旨とするユダヤ教支配の社会に対して、イエス自身が

『しかし、私は言う』という言い方でもって批判を突き付けたことがあるのは確かだろうけれども(その

場合は「反対命題」と呼ぶに価する)、それが伝承され、マタイ教会において項目がつけ足され、ふくら

まされた時は、反対命題と言うよりは、まさに「律法の完成」(17節)になってしまったのである〉と言っ

ています。


・つまりイエスを律法の完成・成就者として描くのは、マタイ福音書著者の見方(神学)であって、実際

のイエスがそうだったというわけではないと言うのです。


・そういうことを踏まえて、今日のマタイによる福音書の箇所を読んでみますと、本当にイエスは、人を

殺すことと、人に腹を立てること、つまり怒ることとが同じことだと、おっしゃったのだろうかと思うの

です。


・マタイによる福音書の5章21-22節には、そのように言われていると思うからです。


・「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられてい

る。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う

者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。


・もしそうだとすると、とても生きていけません。ここにいるみなさんの中で、「腹を立てた」ことのな

い人がいるでしょうか。私はいないのではないかと思うのです。


福音書をみますと、このように語ったといわれて言いますイエスご自身が、腹を立てたり、怒ったりし

たことがあったのではないかと思われるのです。


・たとえば、マルコによる福音書の3章5節を見ますと、「そこでイエスは怒って、人々を見回し、・・・・」

と記されています。ここでのイエスの怒りは、ユダヤ人が安息日として、今の私たちの社会で言えば土曜

日になりますが、神様を礼拝することが第一で、普段の日の様に仕事はしてはいけないという日に、片手

の不自由な人をイエスのところに連れてきて、イエスがどうするか試そうとした人々に向けられたもので

す。片手の不自由な人は、そのために苦しんでいました。そういう人を、人々はイエスを貶めるために利

用しました。そのことにイエスは怒られたのです。


・その他にもイエスは、怒りといってよい言動をしています。弟子のペテロに「サタンよ、退け」と、イ

エスはおっしゃいました。イエスが、ご自分の受難(十字架)と復活を予告されたとき、ペトロはイエス

を脇に連れいいき、いさめたからです。また、イエスさまは、エルサレム神殿で、両替人の台をひっくり

返したり、はとを売る商人を追い払ったりして、神殿商人と喧嘩しました。


・これらの福音書のイエスの物語は、イエスが実際に怒りをあらわにされたことを物語っています。


・怒りや憤りは、すべて否定されるものではないと思われます。社会の中にある差別や偏見に怒りを持つ

ということは、悪いことではありませんし、むしろその必要があります。


・首都圏であれば、今はどこの駅にもエスカレーターやエレベーターが設置されていて、体の不自由な人

でも車いすに乗って、電車の乗り降りができるようになっています。この駅にエスカレーターやエレベー

ターやが設置されるようになったのは、1970年代からではないかと思います。ちょうどその頃私は名古屋

の教会にいましたが、その教会に脳性麻痺の人がいて、その人が障がい者の仲間と一緒に、名古屋に金山

という駅がありますが、その駅前で、金山駅エスカレーターとエレベーターを設置するように要求する

行動に参加していました。当時「青い芝の会」とう障がい者のグループが中心にバリヤフリーの運動を全

国的に展開していたように思います。そのような障がい者の自主的な運動があって、現在のようにどこの

駅にもエレベーターやエスカレーターが設置されるようになったのです。


・沖縄の人びとの怒り、福島の人々の怒り、権力による不当な差別に対して怒りの声を挙げるのは当然で

はないでしょうか。


・けれども、怒りや憤りが、場合によっては他者の命を奪う殺人に繋がることもと事実です。怒りが殺人

に結びついた例としては適切ではないかも知れませんが、2016年7月に相模原市の知的障がい者施設「津

久井やまゆり園」で起きた殺人事件は、植松聖というその園の元職員が起こしたもので、19名が殺害さ

れ、園の職員を含む27名が重軽傷を負ったという事件です。この事件の場合は、怒りや憤りを通り越し

て、障がい者の存在そのものを否定するわけですから、恐ろしい限りです。植松聖は、「障がい者なんで

いなくなればいいと思った」という趣旨の供述をしていると言われます。「障がい者は不幸を生むだ

け」、「安楽死させる法制が必要なのに、国が認めてくれない」、「日本のために事件を起こした。自分

は救世主だ」。やみくもにそのように思い込んでいるとしか思えません。


・そこでこのマタイによる福音書は、怒りはすべて人殺しと同じだと言っているのでないことが分かりま

す。ただ他者を否定する怒り、特に教会の仲間を「ばか」者呼ばわりしたり、「愚か者」と言ったりする

ことが否定されているのです。


・23節以下では、「反感を抱いている兄弟との仲直り」〔24節〕とか「訴える人との和解」(25節)が、

祭壇に供え物を献げる前に薦められています。神を共に礼拝していながら、その仲間がお互いを見下げて

いたのでは、一体そのような教会の群れとは何なのか、という問いかけが、ここにはあるように思われま

す。


・さて、このマタイ福音書の箇所から、私たちは、どんな語りかけを聞くことができるのでしょうか。マ

タイ教会の教会内倫理か、その背後にあるイエスの言葉か。


・フィリピの信徒への手紙の中に「キリストは神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執

しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました」(2:6,

7)。という言葉があります。


・私はここにヒントがあるように思いました。「もし自分がその人の立場だったら」とう想像力は、他者

を自分に置き換えて考えます。イエスは私たちと同じ人間になられたのです。イエスは、他者と徹底的に

一つとなることによって、他者と共に生きる道である互いに愛し合う道を切り開いてくださったのです。

その道は、人が相互に生かし合う道でもあります。


・他者を否定する殺人と、他者を傷つける殺人に繋がる人間の怒りを否定されたイエスは、ただ教会内の

仲間内での兄弟の仲直りだけでなく、私たち全ての人間が相互に生かし合う関係、分かち合い、仕え合

い、赦し合って、共に生きることへと私たちを招いておられるのではないでしょうか。そのイエスの招き

に応えて、私たちもそれぞれに与えられた場にあって出会う他者と共に生きる関係を築いていきたいと思

います。